聖なる愚者

 『哭きの竜』の終盤は、『ゴルギアス』のような苦悶するハイモラルの物語だ。三下に過ぎなかった三上信也は急逝したトップの替え玉に祭り上げられる。彼は正体を知る幹部たちの口を次々と封じ本人に成りすまそうとするが、その過程で心身を失調する。不当な経緯で立場を獲得した簒奪者に特有のストレスである。人の口を封しても良心まで封じられない。
 三上はただその容姿のために替え玉とされた。当人の実力ではなく、また容姿には当人の責任も伴わない。彼にはその責任のないことが耐えられない。したがって、三上には自らの強運に対する竜の態度が不可解であり羨望であり脅威でもある。強運も自分の責任ではないからだ。三上とは違って、竜は強運に後ろめたさがない。責任のない事象に積極的に殉じようとする。それができない三上は竜に苛立ってしまう。

 責任のないものにどう対応するか。
 『原敬日記』は原と山縣の、屈折したボーイズ・ラヴ文学といえるが、それと並行して、原と大正天皇の息の長いボーイズ・ラヴが内相から総理に及ぶあいだ続いていく。終盤には健康を害してもなお職責を果たそうとする天皇に原が感激してしまう件が出てくる。
 原に感化を及ぼすのは、高橋直樹の時代小説に出てくるような、君徳の類型だろう。君主は自分の仕事の選択について責任がない。選べないからである。職責を果たせる能力に欠いていたとしても、彼には責任がないはずだ。それでもなお、当人の無能力にもかかわらず尽力を試みると、彼は人に何らかの感化を与えてしまう。

 紀里谷和明の『ラスト・ナイツ』のことをよく考える。創作物としての赤穂事件に、君徳のこの手の類型が人を駆り立てた痕跡を認めることはできるだろう。無能の人が能力の及ばない仕事を与えられて、それでもなお尽力したすえに挫折した。この際、無能であることがかえって共感を訴求している。
 紀里谷は『ラスト・ナイツ』でモーガン・フリーマンの造形を無能にしなかった。ハイモラルで目がくらんだという意味では、それはそれで無能かもしれないが、少なくとも無能に見えてほしくない意図は明瞭だった。刃傷沙汰も事故や偶然に近い扱いで、君徳が人を動かしたというより、モーガンの小賢しさが累を及ぼした印象が強い。
 『CASSHERN』と『GOEMON』で行われた物語の課題設定は、シンプルで明快だった。『CASSHERN』は赦し合うべきであると訴える。なぜか。記憶を失った主人公は憎悪の連鎖の端緒となったのが自分であることを忘れていたのである。これが『GOEMON』だと「強くなりたい」となる。かつて子どもであった自分が家族を守れなかったからだ。強くなるとはいかなることか、その答えも恥ずかしくなるほど明快であり、何を以てすれば喚起の源泉となり得るか、両作では的確に把握されていた。しかし『ラスト・ナイツ』では、これが掴み損なわれたと考えるのだ。