エイドリアン・チャイコフスキー『時の子供たち』

時の子供たち 上 (竹書房文庫)蜘蛛星人のパートを司馬文体で叙述してしまい、文中に顔を出して解説してしまう作者に、邪推をすれば心の揺れを覚えてしまう。蜘蛛星はナノマシンの強制注入で無理やり発展させられた実験社会であり、蜘蛛だから女性社会である。体長がメスの半分しかないオスに人権はなく、セックスの後、昂奮したメスにオスはしばしば食われるが、彼女は訴求されることはない。管理職もみなメスである。


一見、フェミニズム小説ではあるが、古き良きジャンルものの作風から推測するに、昨今の筋を軽視したSF政治小説への苛立ちが男女逆転の設定に反映していると思いたくなる。中盤でメスに人権を要求するオスの物語が始まるのだ。司馬文体は現代SF文壇の禁忌に触れる緊張の露呈でないか、と邪推してしまう。


したがって、政治小説が契機となってもそこにとどまらない。あくまで筋が事を展開させる。オスがメス社会でのし上がり、社会の変革を試みるなろう小説が始まる。


この辺の件には、マイクル・フリン の『異星人の郷』の影響を覚えた。人権家のオスは、むしろ静かに進む蜘蛛社会の変貌の産物である。蜘蛛社会はパンデミックに襲われた。殊に被害甚大だった地域では、労働者不足のあまりオスを活用する事態に追い込まれ、オスの地位が向上している。保守的な故郷を追われた人権家のオスはそこを目指すのである。リベラル蜘蛛社会でのし上がり、女社会たる母国に近代をもたらそうと戦端を開くのである。


蜘蛛のパンデミックはペストのパロディである。ペストで人口が減少した結果、労働者の賃金が上昇し、決定打とは言えないものの近代化の遠因となった。かかる史実を踏襲している。『異星人の郷』もペストものであり、やり方は違うとはいえ、疫病の中に近代の発端を捕捉しようとする。パンデミックに際して、誰が正気を保ち誰が脱落したのか。『異星人の』が観察するのはそれで、最後まで発狂しないのは職人たちだ。ここから、イングランド農村の職人の親父さんたちから近代が始まった史実の一説を連想してもよいだろう。


疫病に際して予定説が提起される点でも両作は一致する。なぜ神は疫病をもたらしたのか。蜘蛛たちは体内のナノマシンの存在に気づき始めている。天空を横切る光体が自らの創造者だと気づいてる。神は自分たちを作っておきながら、なぜパンデミックで滅ぼそうとするのか。何を考えているのか。


その神たる人類であるが、これはツンデレである。作者にはツンデレの嗜好と資質があるようだ。


蜘蛛の神であるオバハンは衛星軌道上から蜘蛛社会を観察している。悠久の時が経ち過ぎてAIと融合し二重人格化している。そこに壊滅した地球を脱し放浪する新参の人類集団がやってくる。新参集団は蜘蛛惑星に植民したい。蜘蛛の庇護者たるオバハンはこれを拒絶。文明度はオバハンがはるかに上だ。


新参集団はオバハンと交信しているうちに彼女が二重人格だと感づく。より冷静なAIの方と会話を試みると、隅に追いやられたオバハン人格が「いやいや」しはじめる。オバハンは概して高圧的で受け手を不快がらせる。これが「いやいや」するから印象が変わる。ほかの人物にしてもそうだ。ただパターナルなだけだった指揮官男に深謀が見え始める。高慢な保安要員の男が抑止力たる自分の危うさを自覚し慎重な態度を取り始める。見せ場を作って人格を発見させ好意を誘導する。人類の場面は基本的にかかる手管で展開される。ツンデレもその一環だろう。


人類の話は古代言語学者の視点で観測される。職業からわかるように彼は作者の分身であり、清々しいほど彼の身の回りでは作者の邪念が爆発する。


文系だから主人公はこの世界では役立たずである。この男がなぜか、エンジニアで実務家のツンツンにデレデレされるのである。わたしは知っているのだ。希少性のない男が希少性バリバリの女にデレデレされることはない。もしあったとしても、男が精神の安定性を失うのが関の山だ。人類はそうできておるのだ。しかし、体は言うことを聞かない。鼻の下は意志に反し勝手に伸びてしまう。


始まったのはコールドスリープものである。指揮官亡き後、ツンツンが後を引き継ぎ放浪集団を率いる。主人公男は役立たずだから資源節約のためにコールドスリープする。ツンツンは多忙で眠りわけにはいかない。梶尾真治状のリリカル時間差ロマンスである。たまに主人公男がたたき起こされると、愛するツンツンは老化の一途である。しかし減らず口は若いころとかわらない。たまらん。


しかし、これは収拾がつくのだろうか。不快だった人物をどんどん好漢に変えいくから、最終的に敵役がいなくなる。蜘蛛側にも人類側にも好意が芽生えるから、彼らの敵対には、すれ違いラブコメのようなスリルが生じる。相思相愛の相手が手違いによって仲たがいとなり、早く彼らがうまくいくようにと受け手をじらせる類のアレである。他方で、文系とツンツンのデレデレで邪念が爆発している自分もあり、蜘蛛なんぞ焼き殺せの気分も醸成されているから、この理想主義なオチには肩透かしの感も否めない。


指導者のツンツンさんは晩年に至り、ようやく長いコールドスリープに入り、神格化されている。非常時においてのみ叩き起こせと伝承されている。最後にその非常時となるのだが、何だこの新井素子は。影響関係はないと思うが。