三島由紀夫『午後の曳航』

午後の曳航 (新潮文庫)スタローンのエクスペンダブルズは消耗品であることのタフさを称揚するのであるが、それ以上にこのタイトルは、消耗品であると自覚できることに特権性やノーブルさを見出している。そう思えるためには何らかの精神性が必要なのである。男なら死ねと江田島平八はいう。それはいささか倒錯したマチスモであり、女子供にはかかる精神性が欠いていると示唆している。三島の言葉を借りれば、子宮は重力に囚われている。対する精神は天空に滞留する。それはいつか、天空から栄光の遠い鋭い声で我が名を呼び求めることだろう。


その、よく解せぬ世界観を胸に抱き、ワッチ中の二等航海士は夜な夜な天からの召命を待ち続けている。男なら、栄光の召命を受けたのなら、寝台を蹴って一人で出ていかなければならない。家庭持ちの同僚は栄光の機会を放棄した連中だと彼は蔑む。


エピクテトスがこんなことをいっている。かわいらしい妻や子が与えられるならば、持ってもさしつかえはないだろう。だが、もし船長が呼ぶならば、それらすべてを放棄し、心惹かれずに船にいそぐがいい。だが、もしもきみが老人であるならば、呼ばれたときけっして置き去りにならぬように、船から遠く離れないことだ。


当人自身が困惑するように、男の想念は栄光だの召命だのと抽象的な物言いにとどまっている。彼は消耗品たることの精神性をうまく言語化できない。より正確には、彼自身、家族からの手紙を何十ぺんもくりかえして読んでしまう同僚たちと同様に、消耗品たる機会を逸している。戦争ははるか昔に終わったのだ。


何を以ってして言語化できないものに到達するのか。無意識には無意識で接近する他ない。言語化できない無意識にアプローチするために、栄光への欲望は一旦断念され、無意識下に葬られる必要がある。男は家庭を持つために海を離れ消耗品たる機会を放棄する。そこで初めて、アクシデントに近い形で男を栄光が襲う。遭難の産物であるはずの感覚が栄光の感覚と重なってしまい、無意識を操作する矛盾が達成される。


そこには地口オチのような諧謔の含みさえあり、作者らしい自虐もある。そもそもタイトルが駄洒落(曳航と栄光)である。かくしてマチスモは笑いとともに相対化される。フィクションの手続きとして、称揚のためにこそその価値観は一度、相対化する必要がある。


消耗品たるノーブルの対極的存在として、演技賞狂いの女優が登場する。この通俗的人物は蔑視の筆致で言及されるのだが、子宮が重力に囚われているゆえに、普段の言動からは想像できない実務的能力を発揮する場面が用意されている。これもマチスモの相対化になるだろう。