花沢健吾 『ルサンチマン (4) 』 [2005]

ルサンチマン 4 (4) (ビッグコミックス)

 男の中に機能的な身体が発見されて、love at once が発現してしまう過程は、ごく基本的な作劇の作法に留まるものであり、では、かかる機能的な描画とは如何に、という先々回の議論*1につながるものだ。われわれには、何か機能的なる性質に好意を抱いてしまう傾向がある。
 機能性を軸にした人格のグルーピングを考えると、たくろー&月子をそれに欠けるものとして分類して良いし、反対に、長尾さんと越後を機能ある人格として認めても良い。機能を担う者、それにあらず者をそれぞれペアの人格群に割り振ったやり口は、前に議論した『パルムの僧院*2と似ているし、また、一端は機能性というタームで、長尾さんの好意を享受し得たたくろーが、ドジ娘の月子に戻らざるを得ない辺りにも、『パルム〜』で語られたような、恋愛と機能性の齟齬感を見てもよい。機能性を利用して始まった標準的な恋愛劇が、けっきょく、反故にされるのである。
 おそらくは、恋愛の既得権者の倫理が、機能性の活劇に優先したのだろう。ただ、機能性と恋愛の結びつく風景に実感を求め得ない、という発想も指摘して良い。それは、いいかえれば、機能性に欠けると恋愛を果たし得ない恐怖でもある。「こんなにも惨めな俺様」に機能性があるとしたら、それはメルヘンに他ならぬ。したがって物語は、自らが担ってはならない機能性を他者に負担させることで、事を処理せねばならぬ。長尾さん&越後のペアが活用されることとなる。
 
 他者の機能性にフリーライドする以上、たくろー&月子に対する評価は複雑だ。むしろ、機能性の欠落した人格の恋愛を成就させるために、機能性を保持せる人格自らが犠牲を払う、不条理と紙一重の美しさらしきものに目がいってしまう。人格を魅せる技術としての機能性の語りに、本作が付加価値を投じた箇所はそこにある。

*1:2007/01/09を参照

*2:2005/07/16を参照