トーマス・マン 『ヴェニスに死す』 Der Tod in Venedig [1912]

ヴェニスに死す (岩波文庫)

 人格が物語の常識圏から逸脱すると、もはや語り手は彼の心的な詳細を語り得ず、内語の開示は困難になる。たとえ、無理に開示したとしても、情報の信憑性は疑われかねない。しかし、事が恋愛のパワーゲームになると、内語は開示されることで、人格に著しい劣勢を強いるものである。したがって、内面を語り得なくなったのことを、複数の個体にまたがる情報開示戦の一環として、考えることもできる。個人から視点が分離すると、他個体の心理へ介入する権利が語り手に生じる。
 もっとも、ここでは、力関係の反転する歓楽劇に、情報開示戦が活用されたのではなく、むしろ、語り手と被写体の立ち位置が不明になるような、距離感の不整脈が語られている。彼の視点から語り手が分離しそうで、なかなか分離しない。あるいは、すでに、開示された情報は欺瞞なのかも知れぬ。それに応じて、われわれは、恋愛の対象の内面へ限りなく近接しつつ、決して開示には至らない。つまり、情報制御のさじ加減が、物語をスリラーのフォーマットに近づけているように思う。