スピーク・ライク・ア・チャイルド

 現在の書き手にとってイヤらしく思われるのは未来を観測する自意識であり、未来の受け手にとって感興を削ぐのは、自らが起草した以上、情報はほぼ明らかで、しかも受け取り期限が自明なので受け取る行為自体に意外性が少ないことである。歓楽は歳月を経て劣化した記憶の度合いに頼らねばならぬ。
 前々から議論してきたように*1、未来にあって情報が開示される身になれば、作為的な思い出では物足りない。これが未来の自分に何らかの情緒を及ぼすだろう、という意図が、その未来の情緒を損ねるおそれがある。必要なのは、未来に波及するなんて思いもしなかった装置であり、あるいは、記憶の継続性を妨害すること。つまり、受け手の私には、記憶を失ってもらわねばならぬ。「スピーク・ライク・ア・チャイルド」(カウボーイ・ビバップ)というわけだ。
 未来の受け手が記憶を失うことは、受け手自身にとってはもちろんのこと、過去にある書き手に対しても、記憶の継続について誤算をもたらすことだろう。彼女は、まさか未来の自分がこんな困難にあることを予測しておらず、今ここで行っているたわいもない未来への励ましの影響力に無頓着である。したがって、成された時点では未来に対する作為だったことは結果として意図した作為とはならない。
 反対に、未来の彼女のとっての誤算とは、むろん、予測しなかった励ましを過去から受け取ってしまったことにある。が、受け取った情報が現況を再定義することに、今ひとつの感興の流儀を認めてもよいと思う。すなわち、気丈に生きてきた自分がどんなに励ましを欲していたか、ということ。

*1:2004/11/24を参照