恥ずかしい台詞禁止

ARIA The NATURAL Navigation.1 [DVD]

 灯里のいささか不自然な浪漫主義は、『ARIA』を知る者にとってみれば精密で確実な予期の悦びでもあって、つまり、かかる不自然な恥辱感は、それが発せられるや否や、藍華の悲鳴を引き出すことで贖われるはずなのだ。恥辱に苛まれる藍華の錯乱や突っ込みを被った灯里の困惑が歓楽劇として好ましいのだが、何よりも、如何にも『ARIA』らしい安堵がある。藍華によって必ず客体化される以上、灯里の浪漫主義には保険がかけられていて、われわれが極度のストレスを被るほどには、かかる恥辱は実体化することがない。ただ、恥辱の保険は彼女たちの対話劇に限定されるものであり、これを話数全体のsubsetとして見なしたとき、保証され制御された恥辱感は逆の働きをしているようにも思うし、あるいはだからこそ、灯里の浪漫主義には保険をかけねばならなかった、とも解せる。物語はルーティンとして、アイのダイアローグを以てエンディングに入らねばならぬが、この幼女の台詞が灯里の浪漫主義に劣らぬほど、こっぱずかしいのである。しかしながら、われわれが恥辱を覚えたときには、話は既にエンディングなので、浪漫を中和すべき藍華は居ない。恥ずかしい浪漫主義の不自然を正統化する装置が失われたとき、今度は物語の観察者各位が彼女に代わり、「恥ずかしい台詞禁止」等々と悶絶して、この是正を試みなければならぬ。藍華の「恥ずかしい台詞禁止」は、事前演習だったのであり、歓楽の感受方法を教えるガイドでもあった、と思うのである。