アルフレッド・E・ヴァン・ヴォークト 『非Aの世界』 The World of Null-A [1945]

非(ナル)Aの世界 (創元SF文庫)

 記憶の継続性に欠けることが明らかにされると、今度は生体の継続性がなくなる。物語を運用する見地からいえば、情報の逐次投入が行われているわけだが、そこに内語の奇妙で唐突な分譲の問題を重ねてみると、感興を保持する技術に加えて、視覚や内語の経験を違和感の伴う形で多様にする修辞も見受けられる。
 教科書に従えば、われわれの筆致を超えた才覚や能力の内面は閉ざされるはずであり、対して、内面の開かれた人格はパワーゲームにおいて弱者とされるはずだ。ところが、この物語をほぼ一貫して眺める内語の所有者は劣者とされていない。あるいは、たとえば『マトリックス』('99)の原風景のようなもので、潜在する莫迦みたいな才覚の発現する過程が扱われる。ただ、両者にあっては、まだ見ぬスキルに向けられた懐疑の度合いが異なり、ナイーブなキアヌに比して、こちらははしゃぎすぎの感があったりする。結果、その意欲に行動の追いつけないドジ描画が一種のヒューモアとなりかねない。
 基本的に統一された内語が設定された上に、時折、無秩序に別の視角が闖入してくる戸惑いは、成長の不安定を表現する試みと解せば、合理化できないこともない。しかし他方で、ヒューモアを伴う意図と行動の分離感は、確実に、語られる内語の信用を失墜に至らしめている。記憶も生体も、そして、教科書を読まない内語もすべて信用できないのである。したがって、内語は開示されながらにして、われわれから遠ざけられることとなる。いいかえれば、内語を開示しながら、筆致を超えた才覚を表現する方法論が窺える。


 しかしながら、実際のところ、これがうまくいってるかどうか微妙で、やはり分裂症のエキセン振りはヒューモアへと続くように思う。