藤沢周平 『蝉しぐれ』 ('88)

蝉しぐれ (文春文庫)

教養小説には終わりがある。つまり人の成長には限度がある。だから高度成長が終わった段階で、そのフォーマットは何らかの変容を被らねばならないだろう。成長を描画することの歓楽がもはや利用できないのだ。


この点、藤沢は教養小説を政治スリラーにつなげることで問題を一応処理してる。ただ、成長とスリラーの相性を問うとなると話は別である。教養小説という出自がちょっとした掣肘になるような気がするのだ。成長の過密な描画は、結果的に人格の強度を孕みかねないから、たとえ危機が生じたとしても、彼の成長を知るわれわれには、その強度に対する確信があり、したがって危機が危機として作用しづらくなる。


で、ここから『蝉しぐれ』とは直接関係なくなるのだが……、


人格の強度がスリラーを曖昧にする傾向は、山田洋次版の『たそがれ清兵衛』にもあって、これは別に教養小説ではないのだが、真田広之が武断的な危機に見舞われる時点で、スリラーとしては終わってる。負けるはずがないのである。


では、なぜ彼を投じるのかというと、山田洋次の負ってきた空間の厚みを考えてやればよいと思う。


前に触れたように、北野武(あるいは黒沢清三池崇史)やウォン・カーウァイ(あるいはジョニー・トー)がやってみたのは、伝統的なジャンルムービー(ヤクザ映画/英雄片)を文芸のフォーマットへずらすことだ。


その際に必須となるのが、ジャンルムービーと文芸映画を横断できるような語り手の造形だろう。大杉漣役所広司哀川翔トニー・レオンアンディ・ラウ等々。


ところが、山田洋次の藤沢路線からすると順序は逆になる。文芸映画のフォーマットが殺伐とした立ち回りを処理せねばならぬような事態が生じてくる。


そこで、真田広之の微妙な存在感というか、体育会系と文系の両義的な感受性が活用されることとなる。またその両義性が、スリラーの加減に幅を持たせたとも解せるのではないか。