School Days

誠ざまあ
罹災した狂気はむしろ利用してやらねばならぬ。バーサーカーに出来ないことはない。言葉の格好良さとはそうした前向きな狡猾さにあって、殊に世界を淡々と始末する所作になると、彼女の自失感は職人の明晰な理性と区別がつかなくなる。もっとも、自覚的に利用する時点で、それはすでに狂気とは呼び難くもあるので、われわれが言葉に見た理性の物影は偶然の諸事情の結果にすぎないのかも知れない。


言葉の狂気が理性的な布置に近似するありさまはいささかスクリプト風で、何らかの外在的なイベントをきっかけにして、一連のシーケンスが自動的に立ち上がる印象――「発動」と称されたりする――がある。処理の実施に当人の意志が直接は介在しないために、狂気の感覚はとりあえず温存できる。ただ逆にいえば、機能的な行動を表現する際にはあくまで偶然を装わねばならぬような脈略も現れていて、そこで誠をめぐる物語の地誌が思い出される。


現実に当てはまるかどうかは別として、スクイズの物語的な地誌は、恋愛の浸透力と人格の固有なまとまりを代替関係に置いている。膨大な対人シーケンスへ対応するために誠は分裂せねばならなず、人格の整合性は邪魔になる。あるいは、固有の意思決定者が不在になるのだから、選択という場景そのものが不可能になり、本来は排他的であったはずのシーケンスが併走できるようになる。しかし代わりに、選択そのものが成り立たないとすれば、物事を分割するという理性に特有の活動もまた描画し得ない。それを描いたら嘘になる。したがって理性は他の形を借りないと働けなくなる。