谷崎潤一郎 『細雪』 [1942-48]

細雪 (中公文庫)

見合い相手のインフレーションというべきか、婚期を逃し売れ残りの危機が高まるほどに、かえって好ましい男性が現れるのである。加えて不可解なことに、せっかく俺様のような好人物が到来したというのに、雪子の稚拙な対応で肝心な話はまとまらない。「俺様」としては彼女の態度は不快で、その振る舞いに成熟のなさを見るほかない。けれども谷崎の解釈は違っていて、むしろそれは気位の高さだとされる。


性の政治学を持ち出せばまた面倒にはなるが、とりあえず婚姻の意思決定に関して、雪子の内面は曖昧で事実上封鎖されており、その内語が見えない以上、人格の強度は彼女の方にある。だから雪子の態度をなじるのが間違いなのであって、ここではむしろ気高い女のために投じられるコストが強調され、結果、見合いの相手にインフレが起こるのである。もしそれが不快だとしたら、それは修行不足の証だ。では何の修行か? もちろん谷崎だから、ドMの修行である。




そもそも伊織のような小娘に大の大人が「ヘンタイ☆大人」と罵倒されて悦びに打ち震えるようではあまりにも不甲斐ない――谷崎ならそう語りそうだ。つまり、そこには伊織に対する甘えがある。われわれには伊織の好意に確信があるので、いわばその好意に甘える形で、安心して罵倒の嵐に身をゆだねることができる。しかしながら、伊織の困惑を愛でるという意味では、われわれのマゾヒズムは彼女に対するサディズムともはや区別がつかない。


やや古い例だが、『痕』の千鶴さんに殺されたって同じことなのだと思う。当時、20代前半の若者であった自分は彼女の魅力を解せず立腹したものだが、おっさんとなった今では修行も進み、千鶴さんに殺されたくて仕方がない。けれども、この被虐趣味の純度も決して高いものとはいえない。われわれには千鶴さんの好意と当惑を楽しむ余地がある。


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最近だと自分は『300』の姉御(レナ・ヘディ)に刺し殺されてしまって、痛く昂奮を催したのだった。姉御にはわたくしに対する好意など微塵もないはずだから、これこそドMの気性が現れたものではないか? 否、姉御の憤激を誘うまでに至ったわたくしの感化を考えれば、やはり何らかの嗜虐心が刺される方に認められる。だから、われわれを虐げる者は、好意であれ怒りであれ、われわれの感化を受容した素振りを見せてはならない。感化を自然に隠蔽できるように、自意識と無意識を調合してやらねばなるまい。自分は伊織にツンツンされるだけで途方もなく幸福ではあるが、谷崎ほどにヘンタイが昂進すると、より繊細で鋭利な刺戟でないと効果に欠けるのであろう。