The Wayward Cloud (2)


2. マトリョーシカ人形


朝の斜光を浴びた冬枯れの往路は薄い水彩画のように褪色していた。消失点へ伸び行くアスファルトの起伏に女体のなだらかな線を感じた私は陶然として目を細めた。日に照らされた緑の街灯も私につかの間の安息を与えたようだったが、好ましい兆候は会社の昇降機に認めた黒い染みによって私から奪われた。溝鼠の痩せた骸のような気味の悪い斑文は、私が努めて目を向けないようにしていたものだった。


会社の黴臭い空気には物憂げな香りが漂っていた。のみならず傷ましい悲痛さすら含まれていた。私は窓際の事務机に置かれた牛乳瓶を眺めながら巻煙草に火をつけ、季節の外れた一輪挿しの鉄砲百合を前にして、机の主の発狂した姿を思った。体内に収まりきれず剥き出しとなった神経に身体を縛られたようなあの身の凍る唸り声を。……私はやって来た同僚と彼の事を話題にした。


「Kの奴、ついにやったらしいな」


「ああ、阿佐谷で飛び込んだらしい。非道い有様だったそうだ」


「やはり宮崎あ○いか? 例の放映、始まったからな」


「今年はどのくらい死人が出るのかな……。君もせいぜい気をつけるんだな。凄い顔してるぜ」


私は手洗いに駆け込んで、鏡台に映った世にもおぞましい顔を子細に観察した。恐怖の惰性のためか、歪んだ唇にゾクっとした神経質な微笑みが固着して離れない。私は、自分のみならず同僚のKや義兄に下された神罰について考え、誰よりも美しく生まれたためにオッサンの皮という加齢臭の牢獄に投ぜられた萌え美少女たちの恐ろしき苦悶に身を震わせた。老衰で緩慢に滅びつつある人のように、私は気の遠くなるような時間をこの棺桶に身を横たえて過ごさねばならないのか。むしろ自ら進んで滅ぶ方がどんなに増しか。私はこの自滅欲に冷笑と野蛮な悦びを感じずには居られなかった。が、姉を責める義兄の怒号の響きがすぐさま私の平和を打ち据えにかかるのだった。


――どうして宮崎あ○いは俺の嫁じゃなかったのか! どうしてお前は宮崎あ○いじゃなかったのか!


冬の浜辺で捨て鉢となった、生気のない姉の笑顔が私を地獄の底に叩き込むのだった。


――私どうすれば良かったの? ひろふみ君に何をしてやれたの?


私は追われるように建物を抜け出し、冬の日のあたるベンチに腰を下ろした。そこは幼稚園の裏にある公園で、短き陽光を惜しむ幼児たちの喧噪に沸き返っていた。私の鼻はむせ返るような乳臭き不快な香りに刺戟された――私はロリコンという大罪からかろうじて免れていた!


幼児どもの傍らで談笑していた美しく官能的な曲線を持つ人妻たちは、私に不審な挙動の気配を感じ重犯罪の影を認めたらしく、警戒の眼差しを一斉に寄越してきた。私の身体は神経の疲労でもはや微動だにできず、ただただ硬直するしかなかった。私は諦念して死を待つ人のように静かに瞼を降ろし、私という汚らしいオッサンの皮をまとう可憐な美少女の姿を思い描いて心の安らぎを求めようとした。だが私の想像した萌え美少女はたちまち血煙の飛沫を散じながらふたつに割れ、その内からあの悪魔的な微笑みを浮かべてきた汚らしいオッサンが這い出るのだった。私は絶望的な労力で希少な神経を費やし、オッサンの皮を引き裂いて、その内から途方もない美少女の姿を取り返した。しかし美少女の皮は滑るように私の手から抜け落ち、醜悪なオッサンの姿が無惨にも再び外気に晒された。私の身体は幾度と無く美少女の皮を破りオッサンの姿を破りながら縮小し、やがて虚空に失われたのだった。



私は震える左手で黒電話の受話器を握り、癲狂院の番号をゆっくりとダイヤルしていた。変調音のピッチ感覚に身を委ねた私の聴覚には、礫死体で見つかる前夜、泥酔し嘔吐物の海に漂った義兄の絶叫がいつまでも木霊していた。


――俺、今度生まれ変わったら能登麻美子になるんだ! そして毎晩のように川澄綾子に蹂躙されるんだ!


ここは愛のない無感動な宇宙だ。生きる意義は見つかるのだろうか?(つづく)