やりすぎた純文学はハードなSFと区別がつかない

作家は自分で自分を腑分けして、その臓器の一々に解説を加えるものだと漱石はいうが、では実際に狂いつつある自分を叙述できるかというと、白痴の内心を解析する困難がやはり思い出される。つまり叙述できる狂気は狂気ではない。叙述された狂気はどことなくイヤらしい。


歯車―他二篇 (岩波文庫 緑 70-6)
芥川の「誰か僕の眠つてゐるうちにそつと絞め殺してくれるものはないか?」(『歯車』)とか、自分は大好きなのだが、反面、気障すぎるとも思うし、気障さ余って可愛くも感ぜられる(むしろそれが狙いか?)。病理を読み物として消化できる余裕が狂気のもっともらしさを阻却しかねない。しかし正気という整合性の圧力を欠いたら、読み物の歓楽がなくなる。


哀しき父 椎の若葉 (講談社文芸文庫)業苦・崖の下 (講談社文芸文庫)
たとえば、芥川に比べると葛西善蔵は全然余裕がなくて、ああテンパってるな、狂人はやはりこうでなくては、とうれしくはなる。ただ本当にテンパってるから文章自体の破綻が甚だしく、いちいち主語と目的語を探さねばならない読解の煩わしさもある。もっとも嘉村磯多によれば、一枚上がるたびにフンドシ一丁でワンワンした始末らしいから、彼は彼で格好をつけるところもあったのだろう。イケメンの葛西が非モテの嘉村にしてやられた形か。


蜜のあわれ・われはうたえどもやぶれかぶれ (講談社文芸文庫)
叙述の破綻では最晩年の室生犀星も負けてられない(『われはうたへどもやぶれかぶれ』)。もともとの悪文家が明瞭を得なくなるのだから酸鼻極まるのだ。カテーテル尿道に突っ込まれて超痛いとか、そのイヤイヤな内容も相まり、テンパったのは文体ではなく自分の脳ではないか、というメタな波及効果すら感ぜられてコワイ。でも翌日ラノベを読んだらアホみたいに頁が進んだ。


しかし、いくら犀星でも近代詩に頼れば叙述の明瞭さはもはや問われない(『老いたるえびのうた』)。最晩年の混迷した推論のパターンが、イヤイヤな情緒の実感を温存したまま、頑強な修辞の構造によって形を得たように思うし、そこで狂気を描画する問題がひとつの解消を見るようにも思う。