ケン・フォレット 『大聖堂』 The Pillars of the Earth [1996]

大聖堂 (上) (ソフトバンク文庫)
プロジェクトの規模が拡大し安定するとプロットの収穫逓減が始まる。危機に対する感受性が薄くなり、成長のよろこびとスリラーが損なわれてしまう*1。また、物語がゼロ和として設定されると、プロジェクトの安定はそれまで拮抗してきたantagonistsの凋落を意味し、その負の成長が読者の焦点を撹乱するおそれがある。われわれには負け犬へ好意を抱く傾向があるのだ。したがって、感情移入の操作についていえば、プロットの収穫逓減による敵対者の負け犬化を、主人公への好意を損なわない形で語る必要がある。うまくゆけば、拮抗を失したことで甘くなったスリラーに代わる感情喚起の装置を、そこから回収できるかも知れない。


本作の収穫逓減は“七人の侍”プロットが処理された段階から始まるように思う。後も危機と解決のジェットコースターが執拗に襲いかかりはするものの、物質的な城壁を作ってしまったためプロジェクトの安定感は一気に確保され、何かプロット頑張ってるなあ――という感がスリラーに優越しかねない。もちろん拮抗が崩れるにともない、副院長のリミジアス(=俺)やウォールランは凋落。ウィリアム・ハムレイは造形的にちょっとやりすぎかもしれないが、ともかく、このまま負の成長が続けばフィリップに対する読者の好意は不安定になるだろう。しかし、敵対者のマイナス成長が凋落のように見えて実は違うとしたら、その限りではないはずだ。つまり、成長の解釈を変えることで、フィリップの造形を損なうことなく、リミジアスから負け犬の萌えを回収しプロジェクトに組み込むことができたのだ。




ところで、『君が主で執事が俺で』を観ててぼんやり思ったのだが、東方先生の変則的な行動パターンとか、あの類の話も拮抗者の凋落対策として解釈できるかも知れぬ。拮抗者を拮抗者として見せないような偽装工作が有用なのだろう。

*1:2007/09/26も参照