ARIA The ORIGINATION #05

灯里の「恥ずかしい台詞」が藍華によって応酬されないとなると、あの不自然な舞台演技は行き場を失い、物語の規則性を汚染するおそれがある*1。殊に、この話数の恥ずかしい台詞は冗長でわざとらしく、それだけにぞんざいな扱いが違和感を残すように感ぜられる。


たとえば、『ワイルド・ブリット』('90)のチャリンコ競争といったらよいだろうか。どうしてジョン・ウーともあろう人が、こんな何気ないシーンに長々と時間を費やすのか?――という違和感だ。もちろん、それは潜伏期間の長い反復再現のフラグ(チャリンコ→ベンツ!)に他ならない。「恥ずかしい台詞」はけっきょく藍華の内心で反復されて、違和感が収束する構造的なよろこびがあらわになる。


ただ、物語の美的価値の課題からすると、そこで引き出されたよろこびに、きわどい多価性を認めても良いだろう。


この話数の行う文芸上の問題提起は負け犬根性の合理化である*2。物語は、凡人の口惜しさと哀しみを防腐する文芸の処理として、まず負け犬根性のアウトソーシングを利用する。



それは負け犬の視角を空間的・時間的に多元化する方策といってよいだろう。幼少の藍華によって粉飾決算された晃の負け犬根性は、今度は逆に、負け犬の病に罹患した藍華粉飾決算するのである。それぞれの粉飾決算は言葉遊びにすぎないのだが、負け犬性が負け犬同士の間で継承され反射するような、時代を超えて広がる運動の感覚が、傷のなめ合いに文芸的な価値をもたらすのだ。


他人に再現された反復という意味では、負け犬の世代継承にも「恥ずかしい台詞」の処理と類比できるものはあるだろう。ただ、負け犬根性の継承感覚が広範的な質量によって防腐処理の効果を担うのに対し、「恥ずかしい台詞」のフラグ回収は刹那的な速度によってその運動量を構成するのである。

*1:2007/04/10を参照

*2:2007/12/26も参照