島崎藤村 『ある女の生涯』 [1921]

 狂気を知覚できない狂人の叙述には遠近感がないので、文芸的な愛顧を求める競合へ乗り出すには、狂気に空間的な指向性を与えるべきだ。つまり、狂人は移動せねばならぬ。そこで伴う病の昂進は物語に機能性をもたらすだろうし、人格に対する憎悪と反感に及んだ語りの浮遊感も、報復と凋落の悦びへと編成替えできるだろう。われわれが辿るのは、狂人がついに狂気を知覚するに至る逆説的な成長の道程なのだ。