ツンデレは制御された墜落である――『とらドラ #08』

ツンデレには、意識の配向を操作する作法と訓練が必要だ。娘がツンツンしておるなと自覚的に接してはイヤらしくなる。しかし猛り狂う娘に主人公男が鈍感すぎると、彼の造形の信憑性が疑われ、その視点が信用ならなくなる。われわれにはあからさまなのに、主人公男が気づかないとなると、もはや彼はわれわれではない。



では好意を意識しないことが合理的であるような言動とは何か。好意が好意でないような担保はいかに設定されるのか。前に『サラリーマンNEO』で検討した際*1、慣習化した振る舞いが半ば自動的にデレった物腰へ至る様を見た。無意識に生じた仕草なので当人たちは取り敢えず愛に感づかない。けれども観測者であるわれわれには嬉恥ずかしい。




とらドラ』ならば、意識を知らずに配向させるような稠密で習慣化された環境作りは、家事プレイに託されることだろう。#08の中盤では、ドジった大河に竜児がアッパーカットを当てても、スキンシップを受容するその娘には愛の自覚も恥じらいも怒りもない。北村に気をとられているのだ。しかしモニター越しに観測するわたくしは嬉恥ずかしい。



逆に「自分にも自分がわからない」となる件は先回に続きリテラシーの強迫観念といわねばならない。娘の自覚を妨げるのは理屈通りだが、無意識が言表されてしまったら、それは無意識でも何でもなくなるし、またツンデレプレイの負託にも公平性が欠けるように見える。大河の属性にプレイが依存しすぎで、竜児の造形に希少性が出てこない。



ツンデレの場にあって、われわれはそこに居ながらにして、それに気づいてはならない。しかし自意識を怖れすぎると、今度はわれわれが消失してしまう。結果として、ほぼ竜児の独占していた視点は解禁され、あのプールサイドを竜児と大河の視点で細かに分割できるようにはなる。けれども視点分割が最初に触れたような造形の信憑性の問題に巻き込まれると、視界の散布界の緩さを奏功させる意図があまり見えなくもなる。これは『バルカン超特急』の前半で戸惑った混乱に似ている。

*1:2006/11/08を参照