リアリズムと萌えは相性が悪い

タイタニック』のローズが凍死したジャックを蹴落としたとき、語り手はキャラの変化する意識を記述的には説明しない。アニメがよくやるように、回想フラッシュを焚きつけて、心境がここで変わりましたと合図を送ることはしない。リアリズムの文法で映画を作っているから、ローズの内面という目に見えないものを可視化しない。



リアリズムの文法は意識を時間に従わせる。しかしロマンティシズム(と取り敢えず名付けておこう)の文法では意識が時間に介入する。初期の北野武はただ人を殴るだけである。けれどもジャンルアニメは、打撃を加えるカットの尺を必殺技やら何やらを咆哮する声に応じて可変させる。ロマンティシズムの文法で絵を作るのである。



ハリウッド映画はリアリズムである。小津、黒澤、溝口、成瀬、増村保造岡本喜八市川崑らも、あるいは社長シリーズも東宝特撮もリアリズムである。だが『ローレライ』や『僕の彼女はサイボーグ』はどうか。おそらく岡本喜八樋口真嗣の乖離は、岡本とポール・グリーングラスのそれをはるかに上回ることだろう。60年代から70年代にかけて、邦画の文法がリアリズムからロマンティシズムへ変わったのだ。深夜のジャンルアニメもロマンティシズムの文法を使うことが多いが、宮崎駿高畑勲から始まってヤマカンに至るようなリアリズムの流れもある。



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リアリズムの文法にとって冗漫なロマンティシズムは野暮の固まりなのだが、ロマンティシズムの文法でなければ忖度できない表現もある。萌え文脈では『ハレ晴レユカイ』や『もってけ!セーラーふく』のリアリズムが逆に野暮となりかねない。いいかえれば、ランカちゃんがクネクネするような野暮ったさがないと悶えてられない。



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実際のアニメの制作現場で、たとえばシナリオ打ち、演出打ち、作画打ち、カッティングの場で、リアリズムとロマンティシズムの淘汰は普通に見られるはずだ。



具体例として、拳が顔面を襲うロングのカットと、そのアップショットをつなぐ編集を考えてみる。



アップショットの尺は拳がINしてさらに顔面にぶつかるまでをカバーするのだが、前のロングですでに直撃寸前なので、そのままつなぐとダブルアクション気味になって弛緩する。リアリズムの文法に則れば、アップショットの前半をばっさり切ってしまいたい。しかしロマンティシズムの文法にとって、ダブルアクションと時間の可変は意図されたものである。殴り合う両者の力関係が逆転したことを説明する信号だからである。



リアリズムの文法はその説明こそ野暮だとするのだが、おそらくここに優劣はない。ただ違うだけなのだ。