宮部みゆき 『火車』 [1992]

火車
急速な情報流出は構成上の負債を抱えます。情報ダムの枯渇によって、早くも序盤越えで失速する事態を考えねばなりません(たとえばポール・ハギス脚本の『告発のとき』)。本作では文庫版の140頁あたりから始まるサラ金の規範的描画が枯渇の指標となるでしょう。



『わたしを離さないで』が情報の枯渇にあたってジャンルの国替えを行ったことは前に触れました。本作は造形的事象を全うするレースへの喚起を枯渇対策として使います。



本作は借金取りから逃れるために能登麻美子川澄綾子の戸籍を隠れ蓑に使うようなお話ですが、この筋自体は迅速な情報展開のために序盤で把握されます。したがって今度は発見された情報をどう解釈しようか、という流れにはなるでしょう。



主人公のオッサンの解釈では、能登は川澄を利用するために近づき殺したとされます。しかしわがギャルゲラノベ脳からすれば手に取るようにわかる。すなわちこれはガチ百合である。つまり情報流出に代わって、先取りされた欲情がプロットを引っ張り始めるのです。



オッサンの興ざめな解釈もそうなるとガチ百合の煙幕に見えてきます。あるいは例によって指をくわえて見てるしかない男の口惜しさ。



ところが墓場の集合写真とか大阪球場のポラロイドとか、ムフフアイテムで散々に煽っておきながら、宮部先生は意固地に奥ゆかしい。ガチ百合は漸近線のプロセスにあって継起した脆弱なつながりとして処理されるのです。ガチ百合は下品で一瞥だからこそ恥ずかしいと。



行為のメロドラマ的な無知はもちろん理解します。しかしここでも子細にわたる情報公開とオッサンの説明(あるいはわが妄想)がガチ百合を含めまくるため、愛への確信が副産物としての愛を無効にしていると考えます。ツァイ・ミンリャンの『楽日』のような、まさかこれが切ねえ恋愛劇だったと判明するような驚きはありません。



もっとも『楽日』はそのために徹底的な情報封鎖を行って半ば商業性を失っているのですから、ジャンル小説の落とし所としてこれはこれで妥当ではないかと思う気分もあります。