野尻抱介 『太陽の簒奪者』[2000]

太陽の簒奪者 (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)
情報の大放流は読者へひとつの勝負を挑みます。情報ダムの貯水を巻末までストックできるか、われわれの興味を引きつけるのです。しかし先回ふれた『火車』は3分の1あたりで枯渇し、本作も100頁を超えて危急の課題がクリアされた時点で、節水が始まったと判断します。放流の結果明らかになった事件には猶予があるため、スリラーの逓減は否めません。これはジャンル小説の標準的な情報量を示唆するのかもしれません。あるいは単なるプロットの手続き上の問題なのかもしれません。



火車』は明かされた設定で造形的事象を扱い始めたのですが、本作では事件と自律して動けるほどには造形の側に情報が用意されていません。造形の軽さが事件の放流を円滑にする一方で、事件が枯渇すると造形が動けなくなるのです。


造形の描画が事件の放流の邪魔になるかどうか。この因果関係には不明なところもあります。また造形への移入が全くないと事件がアトラクション化しますから、本作冒頭の大放流には造形と事件の繊細な均衡があったと考えます。事件を邪魔しないほどには希薄だがアトラクションにならないほどには骨格のあるような。



ところが生活の危機が緩慢になると、たとえば「宇宙人に会いたい」という人生の動機が実体を失います。同じジャンルものでいえば、『コンタクト』のジョディはファザコンだった。だから最後はアレな事になった。『ミッション・トゥ・マーズ』のゲイリーは嫁に未練がある。最後はスゴいことになった。



動機の実体化は一応のところ事後的には達成されてると見てもよいでしょう。宇宙人とは死んだ父であったり嫁であったりするわけで、それに相当する人物が本作でも土壇場で発見されて感慨は出てくる。動機の空白はミスリーディングともとれます。



しかし動機のなさが読者に勝負を挑むべきミスリーディングと解すほどに、その掛け金の低さで釈然としなくもなります。たしかにそれは気づかれてはなりません。けれども目には見えてなければ驚きはない。『火車』は情報が明らかすぎる点で、初めから勝負をする気がありません。逆に本作は情報を隠しすぎているため勝負になりません。いずれにせよ極端なのです。