当事者不在の文明批評 『巨人と玩具』 [1958]


高松英郎の万能感が序盤でわれわれを魅了すればするほど、彼の野望がよくわからなくなる。役員の座を狙うにしても、シャブを打ってまで狂騒しては、造形の一貫性に齟齬が出る。他社との競合をモンタージュで扱うと割り切ったためか、苦しさのシグナルを一方的に彼の物腰に頼りすぎて、造形の回顧的な矯正をいとわない。



伊藤雄之助は技術職だから、高松から見れば楽な戦いであり、だからこそ彼は変わらないでいられる。技術職の気安さは小芝居で填補するのだが、それ以上は出過ぎない。



反対に川口浩は文明批評を辞さない。彼が批評できるのはリスクを負わないからであり、リスクを負えないのは無能だからだ。そこで高松に説教しても自分の造形を貶めることにしかならず、文明批評に信憑性も出てこない。



造形の正統性競争は最初から出来レースであるし、川口が自罰感情の発露で失点を取り繕おうとコスプレをして街頭に繰り出しても、当事者感覚の追体験にしては遅すぎる。何の問題解決にもならないことを非難はしないが、文芸的粉飾にならないのはつらい。



造形の道徳合戦の泥沼から逃れるためには、別の価値観で競争したい。あるいは高松と競合するために別の造形的リソースがほしい。ギリギリの妥協として最後に出てきたのが、負け犬となってようやく発見できた小野道子の人格と負の連帯感――もっと笑うのよ――なのだろう。



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これではさすがに川口が不憫だと思ったのか、その後『最高殊勲夫人』『女経』と立て続けに若尾を骨抜きにさせて破格の待遇をした保造だったが、やはり童貞の血が騒いでくるようで、自分から骨抜きにさせておきながら、ウヌレ川口めと口惜しくなってもくる。自分になびかない若尾も相変わらずニクイ。そこで保造はこじれた童貞らしい悪魔的なアイデアに取り憑かれることとなった。すなわち、川口のサメ脳を若尾にぶつけてみたらどうなるか。『妻は告白する』への道はこうして拓かれたのだった。