若尾文子と童貞たち 『好色一代男』 [1961]


童貞である語り手の矮小な空想力には、本作が扱うような、リア充の生活描写が手に余る。しかし、自らの童貞性が暴露されるのも恥辱だから、威勢よくやってしまって、雷蔵のナンパがセクハラ・痴漢・ストーキングと区別しがたくなる。女体を愛でるにせよ想像の域を出ないから描画は記述的となり、各イベントがダイジェストのように早漏展開される。



他方で、鴈治郎雷蔵の絡みとなると、童貞の本領が発揮されて、いろいろな意味で、見ごたえが出てくる。凛とした船越がやっぱりいつもの船越に堕ちる様や、ハーレムエンドの痴話騒ぎの中で、ひとりツンツンするいつもの若尾にも、あるべき造形があるべき振る舞いをする安心感がある。




ところが、あるべき振る舞いだからこそ、いつもの若尾と童貞の問題が保造の行く手を阻んでしまう。若尾が若尾のツンツン性を保ちながら雷蔵にたらし込まれるとは、いかなる現象なのか? あるいは、より個別的な確執を述べれば、これだけ自分を懸想させる若尾が憎く、ぜひとも若尾を貶めたい。しかしながら、貶められた若尾は若尾の抜け殻にすぎないので、そもそも貶めが成り立たない。『青空娘』では服従を誓うしかなかった。これは気持ちよかった。口惜しかった。『からっ風野郎』では若尾をたらし込んでみた。こんなの若尾じゃない。



同年の『妻は告白する』と違って若尾がメインでなかったからか、本作ではとりあえず若尾に持久走をやらせて、体力的な疲弊のどさくさの内にたらしこみを試みることで、保造は童貞の卑劣さを遺憾なく発揮している。若尾も実にやる気なくたらしこまれ、逆上した雷蔵(=保造)に「意外に肥とるな」とイヤミも浴びせられるが、これでは中学生の焦燥と変わらない。こうして翌々年、若尾は他の男に奪われたのだった。