若尾文子と童貞たち 『雁の寺』 [1962]


もし若尾を自由にセクハラしてよい世界があったのなら……という意味で、これは思考実験なのである。鴈治郎は表情を変えず、若尾をなで回す。温厚そうな三島雅夫は、鴈治郎というたがが外れると、温厚そうな見た目のまま若尾にむしゃぶりつき、われわれの価値観を甚だ動揺させる。保造は生命を賭して若尾をセクハラする気魄だったが、川島雄三にはまるで気負いがない。セクハラが生活の一部なのである。



川島の描画する若尾は痴女に等しいので、保造が若尾に託したような造形の希少性をそこに見ることはむつかしい。代わりに、若尾という魔性の属性から解放されたわれわれは、相変わらすノリノリな池野成の恐怖劇伴に促されるまま、とりあえず彼女に高見国一の童貞を奪わせるような蛮行を強いることができる。結果、何が起こったのか。こじれた童貞はブロンソンと区別が付かなくなるのだ



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殺人マシンと化した高見は、あの面白すぎる棺桶プレイに際しても、ほとんど動じることがない。ところが、最初から不気味だった(そもそも本作最高峰の良識を誇りながら存在自体が完全にキレてる山茶花究をはじめ、気味の悪い人間しか出てこないのだが)木村功衆道的感化には、高見も抗しえないとなると、これが童貞の限度かと納得しつつも、川島のバランス感覚がうとましくもなる。