奥行きに理由はいらない 『板尾創路の脱獄王』 [2009]


脱獄ものに『砂の器』を組み込んだコンセプトで奥行きがある。『砂の器』で言えば、「加藤嘉がまだ○○」という発見が本作にもある。課題を上げれば、この組み込み方にやや拙速のきらいがあって、板尾の動機が判明しても、その執拗さに不可解がやや残る。そこまで脱走を繰り返す価値があるのかあまり説得されないし、そもそも説得する意図が薄い。『砂の器』が40分の大回想を費やさないと加藤剛ファザコンを合理化できなかったのに比して、國村は一両日の書類調べで板尾の動機にたどり着く。しかもたまたま書類を見つけたから興味が具現化したのであって、板尾の過去を求めて監獄島に行き着いたのではない。プロットが偶然に依存しているから愛がない。語り手はすでにあのオチを知っているから、自然と油断が出てしまう。よほど本編を本気印にしないとオチで「金返せ」となるのはわかっている。けれども「あのオチだらう」という前知識からは逃れられず、オチの軽さが過去発見の性急さを逆に観客に対して合理化さえしている。語り手の企みが判明した時、本編の展開の軽さが、回顧的に理解されてしまう。


三池崇史の『DOA』を例にすればこれはわかりやすい。クランクインの時点では演出家すらあのオチを知らない。撮影の後半で演出家が思いついた結末だから。したがって本編は否応なく本気になるしかない。


しかしながら、あの軽さでなければ表現できない機微もある。


絵面であれば、監獄島の岸壁からダイブした刹那の、危うく緩慢な揚力。青い大気と黄色い光がかけ合う作り物のような空は、突き抜けるというよりも広達なことで、やさしさや好意のかすかな連なりを保持する。それは、あの「金返せ」なオチにおいてすら、いやあんな結末であるからこそ國村が全うし得た人間への好意的な見解であり、また、グライダー上の、誤解されたこそかえって醸された親密さである。