『耳をすませば』でワナビ脳と恋愛の希少性を考える


恋愛に自分の希少性を見て安寧を獲得する戦略は、排他的であるがゆえに脆弱である。当事者でない限り、ノロケ話から希少性の実感を引き出すのはむつかしい。ワナビ脳に比べれば社会的な担保に欠けると思われる。


既述であるが、普段の生活において恋愛とワナビ脳は必ずしも対立するものではない。どちらも希少性に安寧を求める戦略として、補完関係にあると見てもよい。しかしフィクションではしばしば対立する。物語の理念化された世界では、愛とワナビ脳が代替可能でしかも両立できうるとなると、それぞれののかけがえのなさが失われてしまう。つまり別の意味で希少性の実感が損なわれるのである。


耳をすませば』の不安は、若さと老練さの際どいコラボに由来するのではないか。職人になり作家になるというワナビ脳は頓挫するかも知れない。しかし挫折してもいいのだ。恋愛が残るのだから。ところが、この代替可能性がまさにワナビ脳と愛の希少性を損なっているのである。