近くて遠い廃人たち 『アバター』


ヒロインの造形的な一貫性に引っかかりがあって、ネトゲ廃人賛歌として素直に受け取れない面がある。恋に落ちるのはエンタメの作法として割り切れるし、粗暴な婚約者が敗北する点でも、「嗚呼タイタニックか」といった自虐の悦びに絶えない。しかし彼女が廃人サム・ワーシントンの身上を知って逆上し、その上トルークマクト化した彼に尻尾を振るようでは、尻軽のそしりを免れない。トルークマクトが演説する傍らに何の恥じらいもなく侍りながら元カノに通訳を頼める神経は、展開の都合とはいえ、造形への好悪によるエンタメの毀損を招きかねない。


ネイティリに由来する造形の美学的な危機は、彼女のおかんが霊媒体質にもかかわらず功利主義と和解し造形のバランスを誇示することでさらに煽られる。話者においても美学的な危機は明らかに意識されており、造形のこうした相対的な配置を担保にした形跡はうかがえるだろう。ところが、おかんの寛容さや大佐の機能性が発揮されるほど、かえってサムとネイティリに観念化の危機が訪れるように思われる。わたしは特に葛藤もなく同胞を殺しまくるワーシントンの心理を最後まで理解できなかった。ライターにもその脆弱さがわかっていて、「よく裏切れるな」という大佐の台詞に相対化という担保が託される。完全に廃人化したサムは咆哮を以て答えることしかできない。この解答は、ミシェル・ロドリゲスが同胞を裏切る際に見せる逡巡として代替されてはいる。しかしこれでは、ミシェルの魅力が高まるばかりである。


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アバター』は大佐とナヴィの宗教戦争映画である。大佐は機能性への信奉というほとんど信仰にちかい勇気で、ナヴィの信仰とその強度を競い、かれらを美学的に圧倒している。いちいち行動が具体的な大佐に比べれば、ナヴィの宗教はエスノグラフィのパロディでしかない。加えて、死後も記憶が生化学的に保障される設定はナヴィの勇気の希少価値を貶める。大佐は無神論者だから人生の一回性を知っている。にもかかわらず大佐は管制塔のドアを蹴破ることができる。大佐の信仰が本物にほかならないからだ。