松方弘樹 ひとりぼっちの戦争 『野性の証明』


南極に現れた巨大セイウチを射殺すべく、機上から「発射」と叫んだとき、あるいは国連の科学会議でジョージ・ファーネスの手がその肩に触れたとき、そして南極基地でオスマン・ユセフと抱擁を交わすとき、池部良は不思議な緊張感でわたしどもを魅了してきました。東宝特撮という池部にとってはまことに場違いで恥多きジャンルムービーに接して、可塑性に乏しい彼の演技の幅は決壊してしまわぬか、非常な不安に襲われるのです。


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70年代の東映は、個性的な演者たちの分布する多様性豊かな環境を松方弘樹に提供しました。演技の矮小な幅に悩む松方は、逆にそこで多様性のスポンジたるを求められ、幅のない造形は時代に抗う恒常性だと好意的に解釈されたのです。『県警対組織暴力』の松方は、池玲子の上でドゥドゥと吠え立てる蛮声で、文太の苦悩を照射しました。『大阪電撃作戦』では満身創痍になっても成田三樹夫殺しを諦めないその粘着に、さしもの旭も笑顔を歪めました。『沖縄やくざ戦争』では千葉真一の暴虐を沈着な造形で浮き彫りにしています。70年代の松方に危うさはありません。彼は、幅のない造形の布置と馴れ合うことができたのであって、その造形的な危機は、文太、旭、千葉、三樹夫、梅宮らの去った80年代にならなければ露呈しないのです。わたしどもはそこで初めて丸裸になった彼に、冒頭の池部に似た不安を認めることでしょう。



すでにこの前兆は『広島仁義 人実奪回作戦』に現れていました。前に言及したように、牧口雄二東映実録のリアリズムとは全く異質の文法で本作品を撮り上げています。牧口のロマンティシズムに松方が如何に困惑したか。旭がこの異質な話に何の問題もなく順応するからこそ、埠頭において銃弾の雨に晒されてもぎこちなく痙攣するしかない彼の身体が哀切を帯びてくるのです。


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野性の証明』は離断されたオールスター映画といえるでしょう。成田、梅宮といった、かつては羊水を担ってくれた演者とともにありながら、松方は作中で彼らと接点を持つことはできません。成田も梅宮も彼らなりに自律した造形を誇る人たちですから、たとえ実録路線という文脈から切り離されても、造形の脆弱性を晒すことはありません。むしろ成田などは、『柳生一族の陰謀』や『宇宙からのメッセージ』の怪演から明らかなように、切り離されるほどに喜々としてその固有の輝きを放ちます。しかし松方は違います。


わたしは冒頭の教練シーンを思い返します。「レンジャー! レンジャー!」と脳天気に叫ぶ訓練生を前にして、松方は不動の姿勢を保ち微動だにしない。70年代の東映という子宮からひり出された不安に彼はおののいている。そして機上から高倉健を射殺そうと咆哮する彼の形相が、間の抜けた着ぐるみに「発射」と命じねばならなかった池部良仏頂面と重なったとき、わたしどもは松方の戦場を知るのです。彼の戦う相手は高倉健ではありませんし、まして高所恐怖症でもない。彼は80年代という呪わしき時代と戦っていたのです。