夢見る設計主義を箱庭療法の手段として割り切りたい気分が前提としてあったと思う>チェーホフの果樹園

ヤルタに移住したチェーホフは、荒野から切り開かれた自邸の果樹園が、数百年後に地上を花園に変えると夢想する。しかし、当人はそれを見ることがない。それどころか肺病で死にかかっている。だとしたら、なぜ彼はバラの手入れや花壇の草むしりに勤しむのか。おそらくは、心理療法の効果が期待されているのであって、作業で恐怖を逸らしたいのである。


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恐怖に形式で対抗したい。これを実作に適用するとなると、では何を以てその形式と成すか課題となる。戯曲の『三人姉妹』や『桜の園』では音響が活用されている。近づく楽隊の音を聞いたオーリガは「あれを聞いていると、もう少ししたら何のためにわたしたちが生きているのか、何のために苦しんでいるのか、わかるような気がするわ」という。『桜の園』ならば、これは桜を切り落とす斧の音にあたるだろう。また、転落する群衆劇の『谷間』は、そのなかにあって、浮き沈みしなかったキャラの冗長性を表信の定型性に求めたりする。