記憶のない梯子

自分への執着が高まると、人の物忘れに寛容ではいられなくなる。もしかの人にとってわたくしの存在が重きをなすのであれば、わたくしとの会話が忘れ去られるはずがない。したがって彼がそれを忘れたとわかると、わたくしには自分の価値が減じられたような気がしてくる。


この不満は、物忘れしてることを相手に喚起し、わたくしの存在を改めて刷り込むことでたやたすく解消されるはずだが、そのような行動が自尊心の強度に阻まれる場合もある。というより、この解法を採れる人間は、そもそも相手の物忘れにこだわったりしないだろう。しかし自尊心は、相手が物忘れを自覚する状況を怖れる。わたくしが覚えていて、かの人が忘れたことが伝わることで、彼女がわたくしに執着するよりもずっと、わたくしが彼女に執着していることが自明となる。これが耐え難い。


したがって自尊心は、かの人が持ち出してきた既知の話題に対してあたかも初耳のように振る舞う自意識のゲームを要求してくる。もっとも、このゲーム自体がすでに敗北宣言だから、腹立ちを紛らわせるために、自意識のゲームはやがてある種の諦念として自動化されてくるだろう。人類とは忘れる生き物だ、という諦めの習慣であり、自分はそもそもつまらない人間だとする内向きの諦念である。そして、これは個々人のパーソナリティに因るのかも知れないが、自尊心と矛盾する面がある以上、たとえ内向的な諦念から自意識ゲームが始まったとしても、やがて人類一般への諦めへ移っていく傾向が予想される。自尊心は自分を軽んじられないはずだから、それが出来たとすれば嘘であり、心理的安寧を引き出すには信憑性が足らなくなる。


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Papa told me』の「霧の朝」の話。幼少の知世に物語った話を信吉は忘れる。幼い知世にこの話の記憶を期待するのは酷だと信吉は考えていて、そこに感傷と油断があり、彼が物忘れをしても読者のいら立ちを誘わない工夫が感傷の内に仕込まれている。ところが知世の方はそれを覚えていて、自分が軽んじられたという失望は、感傷の再現と彼女の強度ある人格の発見によって解消される。梯子を意図的に外すのであれば、その自覚が安寧の邪魔になる。それはわれわれのあずかり知らぬ所で外されたのである。