良識という重力の恩寵と呪い 『告白』


時には観客におもねるのも考え物で、キャラを感情移入の物乞いにしてしまうと、かえって観客の好意を損ないかねません。ここでの松たか子でいえば、ファミレスを後にした路上で行う涕泣がそれに当たるでしょう。奇行の自覚をアピールし、観客との目線の共有をわずかでも訴える彼女は、じつのところ自己の造形を貶めています。情報流出の恣意性が隠蔽されなければ、語り手は観客との勝負に敗れるわけですから、あからさまな自覚アピールを用いると、その振る舞いが移入を謀る記号だと露呈してしまい、興醒めをもたらしかねないのです。ただ、キャラの造形を掘り暴いて俗化する営みがこの物語ほど一貫して徹底されてしまうと、また別のシニスムが現れるようでもあります。不快を喚起するためにチューニングされたとしか思えない、少年らの記号的な振る舞いの数々が、造形への好意は何気なく勝ち取るものだといった感情誘導の修辞論へ反抗を試みると、また違うゲームが始まるようにも思える。もしかすると、観客の良識に媚びさせるのはキャラの嘲弄が目的であって、過剰な教条性選好を批判することで、審美的な欲求に応える試みが行われているのかもしれない。



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『告白』は情報開示が先行する倒叙形式で始まっています。犯人探しという情報ダムの放流はサポートに回り、セレブリティを虐め倒す刑事コロンボのごとく、造形の好悪を利用した客煽りに冒頭の進行が依存します。その意味で、前述したような、とても正視できるものではない生徒たちの苦痛なテンプレ造形は、正当に報われるものだったといえるでしょう。もっとも、およそ30分で倒叙劇は終わり、少年の造形発見のプレゼンへと話の舵は切られますから、客を煽るべき造形を失った物語は、造形への反発ではなくコミットメントによって、物語の運用を謀らねばならなくなります。そして、その過去発見にマンガ以上の物を提示する意欲が見受けられない以上、おそらく物語には最初から少年に荷担する気はなく、むしろ彼らはたか子の造形を精緻化する道具に過ぎないのでしょう。



松たか子の奇行は物語の前提であり、それを欠いては話自体が崩壊します。造形へのコミットメントは、物語の既定値であるがゆえにままならぬ奇行に対して彼女から表明される感傷の中で、実現される類のものでした。あるいは、造形の外面から攻めて行けば、淡々と仕事をやる職人の物腰から造形の万能感を引き出す方法も取り得たはずです。実際にファミレスの直前までは、たか子と少年の間においてそのような人格性耐久レースが成立していました。だからこそ、直後に行われるあからさまで下劣な自覚アピールが奇っ怪になってしまい、語り手の意図を計りたくなる心理が生じるのです。あるいは、そう思うように誘導されてしまう。



見方を変えれば、語り手と観客の試合はここにおいてメタ化したといえるでしょう。自覚アピールという客煽りをめぐる解釈の混乱が、造形の好悪を超えて、スリラーという現象の持続を可能にするのです。もともと『告白』に課せられた造形設定は語り手にとって分の悪いものでした。あれほど行動や物腰に好意を挟み込めない前提を負ったキャラも珍しい。



松たか子の自覚アピールは、故意か天然かという二つの解釈を、いわば語り手に体を張らせる形で提示します。語り手の故意であるなら議論は冒頭に戻り、文芸風を吹かせるために、造形へのコミットメントを促すはずの客煽りが目的化して、逆に客煽りを行うために造形が運用されていることになる。一方で、語り手は完全に天然だったという解釈もある。自覚アピールによって観客目線に降りてくれば、好意の余地が生じると本気で信じている語り手がいる。天然と想定される仮想の語り手にとって、自覚アピールが物乞いなどとは思ってもいないことなのです。



まさか天然ではないだろうという先入観は当然ありますから、基本的に故意説を受け入れたくはなるのですが、それを妨害するがごとく、あるいはまさに妨害するために、大仰な芝居が入り、たか子は屋上屋を架すがごとく、自覚アピール自体を自嘲して火に油を注ぎ、もしかしたら語り手は本気でないかと、迷わせてしまう。かくして試合はメタ化ゲームへと持ち込まれ、われわれは爆炎の中で泥沼にはめ込まれるのです。