不可知性の彼方から愛を復元する 『マルサの女』


天然であるがゆえに女は男の造形に好意的な解釈を与え得た、ということはある。意識があれば目は曇るし、たとえ発見できたとしても、変に照れて当人に発見の事実を伝えることができなくなる。宮本信子山崎努の造形を発見するビアホールの場面で考えてみよう。彼女の視点から始まったシーンは、造形を暴かれ驚愕した山崎のそれを以て終わる。天然の属性は測定不能だから、観客は信子の内面からはじき飛ばされ、視点が山崎へと向かってしまうのだ。したがって、物語は山崎を好意的に解釈し得た信子の造形を萌やすというよりは、それを受けて動揺した山崎の心理を観察する方へ観客を誘導する。女は脱税の調査をしているようでいて、実は男の造形を追い込むよう観客を駆り立てている。山崎自身にしても、造形発見時の信子が天然モードであるために、想いは彼女に向かう以上に自身の方へ向けられてしまい、驚愕の表情を浮かべる様となる。自分の中に「夢を売る」という、当人にも把握されていなかった造形を指摘されたのだから驚きは大きい。そこには両義性という修辞のハードルともいうべきものがあって、山崎にとっても観客にとっても既知の造形でありながら、かつ一見して好意的な解釈を充て難い物腰を信子が見出さないと、この驚きは成り立たない。ラブホのシーツや設備へのこだわりは業突張りとして映らねばならないし、山崎当人にとっても鼻からそのつもりでいてくれなくては困る。当人が信じ込まなければ、客を騙すことなどできないのである。



そもそも話の中で、目的と手段の分化を意識しない感傷の揺れについては明確に言及されていた。伊東四朗の脱税がバレる件だ。伊東は路上で涕泣して信子を追い返す。会計士の小沢栄太郎がすぐに立ち直った彼に「泣き真似なのか」と呆れて問う。本当に泣いたのだと伊東は答える。山崎にとっては驚愕だった挙措を、伊東は可知性の低さを温存しつつ彫琢している。前に検討した『マルタイの女』の名古屋章にしても同じで、自供を引き出す技術と犯罪者への感情移入を彼は分離しない。むしろ本気で移入せねば落とすことはできないとされる。そしてこの未分化はメタ化することで、名古屋のアナクロ劇をコントでありながら本気であるような、あるいは本気だからこそコントの信憑性が保証されるような、不可解な高まりを観客にもたらすのである。



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天然は二重の意味で恋愛の不可能性を励起している。自意識を欠いては愛がない。しかし女の天然は男の無意識を彼に提示し得た。自意識があればそんな恥ずかしいことなどできないからだ。そこで男は、恋愛という事態を成立させるために、女を天然の皮膜から奪還しようとする。決意した彼は脱税の指南を女に仰ぐ。するとカメラフレームは女に寄り、視点は彼女の主観へ移る。つまり女の天然防壁が破られようとする。しかしその刹那、職能という惰性に突き動かされるまま、女はその場を逃げ去り、男の手にハンカチが残される。物語の視点は男に戻り、女の天然を剥奪しようとする目論見がここでは失敗に帰している。対してラストでは、同様の視点移動が逆の結果に至る。貸金庫の暗証番号をきっかけにして、視点がまたも男から女へ移るのだが、今回は女の内面が拒絶されない。フレームは天然がはぎ取られたことの驚愕と疲弊に満ちた女の顔を大写しする。今度は女が立ち去る男を見送るのである。彼の目論見は達せられたのだ。