愛の現れる確率分布 『マルサの女2』


『マルサ2』の猿渡先生(小松方正)の供述シーンは、後にセルフオマージュとして『マルタイ』で復活している。先回触れた、名古屋章が自供を引き出す件である。



時事ネタのくびきから逃れ得たのか、という点で『2』を振り返ると、恋愛劇でこの20年を生き延びたと言えそうな前作に比べれば厳しい印象がある。初見のときは小学生であったわたしの胸に迫った、立ち退きを強いられる庶民の悲哀も、今から見れば資産バブルが羨ましいだけで、いまいち伝わってこない。三國連太郎もモテ過ぎでくやしい。ラーメン屋のオヤジさんらが時代を越えられない中にあって、猿渡先生だけが、21世紀の今日にその感動を伝えてくれると思っている。



後代の作だけあって、『マルタイ』の名古屋は『2』の津川よりもずっと、取り調べに際して細かな手順を踏んでくる。ただ、段取りの巧拙はまた、発見されるべき情報の性質の違いをも浮き彫りにするようにも見える。猿渡先生にとって、それは秘匿するどころではなく、是非とも見つけてほしい情報だった。だから津川は、わざわざ意図して調べたということを猿渡先生にあらかじめ明快にする。下手に小細工をしては「よくぞ調べてくれた」という感激が薄くなるのである。対して、名古屋章はあくまで偶然を装って、実行犯(高橋和也)の心理に踏み込む。自供を誘う意図だとわかれば、警戒されるからだ。



高橋和也が秘匿していた情報のことは、前に詳しく検討した。罪悪感が子どもに波及するという解釈は、名古屋に指摘されて初めて当人にわかるものなので、発見されたいという欲望は前もって出てこない。むしろ回顧的に生じる意味で、今度は『1』の山崎努と合流するだろう。山崎も自分の知らぬ情報を信子に指摘されたのだった。



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猿渡先生、名古屋章山崎努三者三様の間には、場面の成立する確率にしたがって何らかの分類が成り立ちそうだ。『2』の猿渡先生も津川も発見されるべき情報とそれに対する態度を事前に知っている。『マルタイ』では、情報を知り意図を起こそうとするのは名古屋だけである。『1』になると、たとえ情報が信子にあったとしても意図はなく、場面の成立は偶然であらかじめ計測不能だ。つまり確率の低さが、愛の出現を促したと考えられるのである。