未練を実感する ――『セカチュー』を考える

セカチューの序盤には幽霊譚の印象が濃い。故人を回想するのだから死臭は免れないし、そもそも二人の馴れ初めが詳細さを欠いていて現実感がない。なぜこんなにマブい女が、俺の背中に胸部を押しつけてくるのか、まるでわからない。ところが、後半に入ると長澤視点の流入も手伝って、地に足が着き始める。謎めいた愛のブラックボックスも回顧的に開かれる。エアーズロックでたかおは長澤の遺言の中にこんな台詞を見つけるのだ――「思い出すのは、焼きそばパンを頬張った大きな口」



たかおへの恋が具体的に表現されることは、翻って、長澤を記号じみた造形から救い、彼女がかつて実在したのだと知らしめることになる。平々凡々とした高校生たかおに恋をした長澤の感性が解明され、その造形が賞揚されるのである。たかおのお化けくちびるも、「なんとマブい女だったか」といううれしい未練にゆるむ。甘い回想から戻ると、柴咲コウの鬼瓦のような形相が現実を知らしめ、ますます未練を煽り立てるようだ。



振り返ってみれば、成体たかおが長澤と抱擁する体育館の場面に、幽霊譚と現実の分水嶺があったように思う。幻想を抱く意味で幽霊譚きわまりないが、一方で、成体のたかおは違いのわかる男だから、長澤をたらし込んでも不思議はないだろう、という奇妙な納得感を自分はあのシーンに見たのであった。