童貞は本当の戦場に至るべきだった 『キック・アス』


これは“マンガ”だという揶揄を恣意性の息苦しさに送りたい。記号的な話や造形のベタ具合に罪過はないと思いたい。



やくざのオヤジ(マーク・ストロング)が好ましい。このオヤジのいかにもな住まいを一瞥するだけで、人柄をたやすく把握することができる。造形の好悪もさることながら、明快な記号によって造形が直ちにうかがえるという安心感がある。道場部屋などその最たるもので、われわれはあそこで修行に励むオヤジに、過程や達成感という記号を見出して満足するのだと思う。ここでは因果関係が保証されるのだという安らかさである。



この記号的な確からしさは、アーロン・ジョンソンには欠けるものである。やくざの息子がレッド・ミストをやるのは納得できる。あの家庭なら、変人コスプレにはまるのも無理はない。ところが、オタ部屋からキック・アスを演繹するのは少し無理がある。狂った万能感が童貞の慎ましい造形とオタ部屋から飛躍していて、地元のチンピラに立ち向かう勇気の源泉がわからない。オタ部屋は記号的に見えて、実はギャルゲ主人公の無味乾燥な四畳半のごとく、何も語っていない。記号的であるから画一化するのではなく、むしろ記号が足りないゆえに個別化がむつかしくなる。



恋愛や武闘の自己研鑽において、童貞は常にプロセスを欠いている。本来的にそれらが達成不能だからだ。恋は誤解によって始まり雰囲気任せだ。肉体の強化は末梢神経の麻痺という実にふざけた形で偶然に達せられる。この因果関係の希薄さは、事件をどれだけ真剣に受け取ってよいか、われわれの判断を狂わせ、クロエの体当たり演技の信憑性にまで、負の影響をもたらしかねない。彼の戦場は、変人たちのコスチュームプレイにはなく、母親不在のキッチンにあるべきなのだ。