隠れ文弱ブラッカイマー 『エネミー・オブ・アメリカ』


コン・エアー』のラストは感動的だ。ブシェ〜ミをあのような形で語り得た、ブラッカイマーの人間愛が胸を打つのである。



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エネミー・オブ・アメリカ』は、体育会系老人と文弱壮年の職能的な絆を謳い上げた『ザ・ロック』を踏襲しながらも、それぞれの造形に若干のノイズを加えている。シギントもやれば現場も踏むハックマンには体育会系に文弱の混交が見られる。ウィル・スミスは例によって、とても弁護士には見えない。むしろ、ジャック・ブラックと愉快なgeekたちの方がよほどわかりやすい文弱の造形をしているのだが、彼らがシギントにハッスルするほど、似たような仕事をやるハックマンの造形性がねじれてくる。体育会系と文弱のわかりやすい関係がこれでは成り立たない。彼らを狙う元海兵隊員の脳内筋肉なありさまも事態を複雑にする。



見方を変えれば、ハックマンらの造形が型にはまらないからこそ、逆にgeeksの造形が戯画じみると言える。相変わらず品のないジャックのインプロヴィゼーションも手伝って、geeksの言動には語り手の悪意を予感させるものがあり、文弱だから有能だからとか、体育会系だから阿呆だといったスクールカースト史観が映画を支配するのではなく、むしろそのような定型にはまってしまうキャラの矮小さを無能の現れとして糾弾するように見える。



冷酷な職能主義に則ると、『コン・エアー』のブシェ〜ミも才能ゆえに語り手の恩顧に浴したのであって、文弱な装いは偶然にすぎなくなる。ところが、『エネミー』の終盤で、ヤクザ事務所にgeeksが至ると、ブラッカイマーの人間愛が暴露してしまう。大銃撃戦後の混乱の中で、カメラは端役のgeeksたちをはっきりとフレームに収め、彼らがこの修羅場を生き延びたことを高らかに宣言する。ブラッカイマーは実のところgeeksのことが心配で心配でたまらない。



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エネミー・オブ・アメリカ』は、少なくともハックマンとウィル・スミスの間において、文弱をトピックとしない。ふたりとも最初から体育会系である。文弱と体育会系という類型は、どちらかというとジャックと愉快なgeekたちとハックマンとの間に、一種の文弱のロールモデルとして、成り立つように思う。geeksの進化系としてのハックマンである。たとえば、バンの車内でgeeksを眺め回す、ハックマンの半ば弟子を慈しむようなまなざしにそれがよく現れるだろう。彼らは同質性ゆえに、造形の比較を可能にする。





老後の生活を空想するとき、わたしは廃工場に籠もって盗聴に励むハックマンの姿を想う。廃工場の片隅でふとましいサバトラを膝に乗せながら動画制作に励む老人の自分を想像する。これが全く満更でもないように思えることが、不快でよろこばしい。