人格性耐久レース 『容疑者Xの献身』

人格性耐久レースとは、キャラの造形の一貫性を願わずにはいられなくなる受け手の態度から生じるもので、たとえば『ダークナイト』のジョーカーや『模倣犯』のピース、あるいは『まどマギ』のQBに感情移入すると、語り手にとっては時に想定外のスリラーが、受け手の中で勝手に成立してしまう。『アバター』の大佐に好意を持ってしまったわたしは、馬脚を露わし取り乱す彼の姿を見たくない。しかし、ジャンルムービーの敵役である以上、造形の凋落は避けられそうもない。そこで、物語が彼をどう処遇するか、語り手の価値観をめぐって、受け手の中でスリラーの自家発電が執り行われるのだ。どうかQBさんが最後まで笑顔でありますようにと手に汗を握るのである。



語り手が、受け手の多元性に配慮を示すケースもある。QBに感情移入する視聴層を想定すると、彼にたいする憎悪にも好意にも対応できるような、両義的な顛末を求めたくなる。しかしこれはこれで、フラストレーションの元となりかねない。




先日『十三人の刺客』を見て不満を覚えた。この話でも例によって、わたしはバカ殿以外に感情移入できず、あの非道ぶりだから役所広司一派に退治されるのは致し方ないとしても、せめて最後まで取り乱さず鬼畜でありながら最期を迎えてくれと、その造形の一貫性の耐久を祈りながら鑑賞することとなった。



『刺客』の語り手は、おそらくバカ殿への感情移入を考慮している。通俗的なジャンルムービーの規則にしたがって恐怖におののき取り乱し、いったんはわれわれを落胆させてしまうバカ殿は、その後、退治される際には何事もなかったように冷静な造形を取り戻してしまう。バカ殿の造形が、受け手の価値観の多元性へおもねるかのように、分裂するのだ。バカ殿がバカ殿のまま退治されたといっても、造形の一貫性を温存する意味での人格性耐久レースはすでに破綻していて、あのバカ殿は、もはやわれわれの愛するバカ殿ではない。QBが無難に生き残ったとしても、記憶の継続性がない以上、あのQBは俺のQBさんではないのである。望ましい顛末を迎えたとしても、造形の一貫性が破れたとあっては、その人格が信用に能わなくなる。それは、両義的な顛末というよりは、ソフトな凋落に過ぎない。



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容疑者Xの献身』を、人格性耐久レースの文脈で扱うのはいささか的外れかも知れない。敵役の堤真一に語り手の明確な好意があるからだ。『模倣犯』には幾度も言及してきたが、この映画は、敵役の造形の一貫性について、原作者を激昂させるほど、明確な意識を持っている。『容疑者X』では、敵役という枷が外されているため、結果として物語の自意識がさらに亢進していて、造形の一貫性はもとより、人格性耐久レースが受け手の側で成立することも見越されている。われわれは、堤真一=俺の造形が好意的に一貫されることを望む。堤がダンカンに嫉妬してストーキングに手を染め、造形を凋落させた段階では、まだ受け手には語り手の価値観や自意識の深度に疑問がある。この凋落はジャンル映画の価値観を反映しているのか、それともそう見せかけた誤誘導なのか、わからない。人格性耐久レースが心理的なスリラーとして意図的に活用されているのである。