属性主義は造形を発見する



愛の始まりに不自然があっても、それを遡及的に追認することはできるし、その意味で、『セカチュー』の長澤まさみ観鈴ちんと似ている。女の痴性を媒介にして始まったその恋は、受け手の劣等感と警戒心を煽ることなく、自然な状況として受け入れられる*1。ところが、人は痴性を人として扱うことができない。属性を愛することができないのであり、また属性主義からみずからの希少性を引き出すのが困難だからでもある*2



属性主義は、この矛盾を解くために、造形を発見せねばならない。観鈴ちんの痴性によって恋が始まっても、痴性を愛することはできない。属性主義は、問題を反転して、どうして観鈴ちんが痴女めいた振る舞いをせねばならなかったか、問いかけ始める。受け手は彼女を発見するのである*3



観鈴ちんの造形性は自己完結していて、その高揚にわたしの存在を必要としない。対して、長澤まさみは、わたしを媒介とすることで、自らの造形性を高めている*4。わたしは、わたしに惚れ込んだ長澤の感性通して、彼女を発見する。同時に、長澤を発見することで、わたしはわたし自身をも発見している。そもそも、わたしは長澤の何を発見したのだったか? それは長澤が何かを発見したことである。では、長澤は何を見つけたのか。彼女は、わたしが人間であることを発見したのである。