世界観の正当性をめぐる自意識の戦場 『相棒 劇場版II 警視庁占拠!特命係の一番長い夜』


物語は、キャラクターの世界観や価値観を試すことで、かれらの人生の動機を顕在化させ、かれらの佇まいを観察に価するものへと昇華しますが、規範意識という社会性のバックアップは、しばしば、この企てを妨害します。たとえ災難が発生したとしても、キャラクターの価値観に広凡な支持があるのなら、かれらの世界観は揺らがず、人生に動機が生じない。逆にいえば、規範意識からの脅威によって、キャラクターは自らの人生の定義を問わずにはいられなくなる。『マイレージ、マイライフ』の独身主義者クルーニーは、妻帯という同調行動に絶えずさらされる。スタローンは最後の戦場でNGOからパシフィズム?の欠如を非難される。『Papa told me』の親戚のおばさんたちは、父子家庭の近代的自我を脅かし続けるのです。





『相棒』は二編の劇場版とも、人生の動機を特異な筋立てで扱ってきました。復讐を試みる被害者には人生の動機が生じない。かれらは自分の世界観に確信がある。価値観に疑念があり怯えているのは復讐を被る敵役の方である。



本作の國村隼は、価値観の揺らぎを自覚しているゆえに、自らの正当性をくどくどと右京に訴えるハメになりました。岸部一徳は更に踏み込んだことをいいます。自分は天然を装うが、自分の価値観が規範意識と拮抗することは自覚している。右京が正しいことも知っている。



右京は人生の動機とは無縁です。自分の世界観に疑念がないことを彼は知っています。受け手も右京の世界観が正しいと知っている。キャラクターの規範意識は、社会性によって、受け手の価値観とリンクしています。右京のまわりに、加齢臭のハーレムが自然と出来上がるのは、罪の自覚のある揺らいだオヤジどもが、自らの正当性を乞うて右京に群がるからでした。しかしながら、これでは、人生の動機に苛まれる一徳や國村の造形ばかりが強度を増すこととなり、右京はただのおもしろいオジサンに止まってしまう。



『相棒』は被害者の動機を飛躍させることで、受け手の混乱をほしいままにしてきました。前作の西田敏行については前に述べました。息子を南米のゲリラに拉致殺害された彼が、なぜ都内で無差別テロを起こすのか。ここに飛躍があるとわたしは考えました。ところが、本作の岸部一徳は、この飛躍を埋める鍵となります。



終盤の本庁地下駐車場を見てみましょう。



自分が誤りで右京は正しすぎると騒いだ直後、一徳は凶刃に倒れます。そして、駆け寄ってきた右京に吐露する。



「殺されるなら、お前にだと思ってた」



右京は驚愕する。



彼の驚きにはふたつの意味があります。右京自身の知らなかった造形を、一徳に提示されてしまった。ここでは、世界観の正当性をめぐる戦いが自意識の深度を競う争いと互換している。さらに、確信して疑わなかった自分の世界観こそファナティックに他ならないと、一徳の指摘で知ってしまった。



今作でも、ヒロインであり被害者でもある小西真奈美の行動には飛躍を覚えました。彼女は、婚約者を殺された腹いせに、本庁舎の玄関ホールで備品の短銃を國村に向ける。わたしは、あまりの政情不安な有り様に、語り手のリアリズムを疑いました。やたらと悲愴感を盛り上げる劇伴とカメラワークにも混乱しました。小西の行動を通して語られる価値観に理解が及ばない。わからないのは当たり前です。今や一徳の指摘から知られるように、右京や西田や小西の世界観こそファナティックであると物語は元々設定していた。それを知らぬわたしたちは、かれらを何とか習俗の知恵の中におさめようとして混乱していた。右京の驚愕は、また、物語の自意識と出会ったわれわれの驚きでもあったといえるでしょう。