超時空参謀・辻ーん、ならびにキャラの淘汰圧を不可視化する話 佐々木春隆『長沙作戦』

長沙作戦  緒戦の栄光に隠された敗北 (光人社NF文庫)
『長沙作戦』の佐々木春隆は思わぬ場所で辻ーんと遭遇している。南京の派遣軍総司令部に申告したところ、総司令官と総参謀長に続いて訓辞をしたのが、辻ーんその人であった。佐々木はその様子を「怪漢が演壇に躍り出て熱弁を振るい始めた」と記している。中隊長として参加した上海事変の従軍体験を語ったらしい。曰く



「タマは当たらない。部下があまりにも怖がるので胸墻の上に大の字に立ってみせると、盛んに狙撃されたが、多くは股間を抜けた」



その翌年、陸士の課外講演に登壇した辻ーんはやはり上海事変で怪気炎を上げている。「上海事変の出征体験を語った辻政信大尉の快弁に感激」という48期生の回顧が秦の『昭和史の謎を追う』に見える。



「辻ーんとの遭遇率は異常」とはよくいわれる。



歩119の緩詰修二が辻ーんと遭遇したのは北ビルマの戦線だった。機動砲小隊長の緩詰が陣地の掩蓋壕に籠もっていると、榴弾が降りしきる中を辻ーんが単身で壕内に飛び込んでくる。曰く



「辻参謀だが、戦況はどうかね?」



最悪の戦場 独立小隊奮戦す―沈黙五十年、平成日本への遺書 (光人社NF文庫)
このエピソードは『最悪の戦場 独立小隊奮戦す』に出てくるのだが、私は長年、石井貞彦の『闘魂ビルマ戦記』と勘違いしていた。『闘魂』は歩112の重機分隊の戦記で、同じ重火器ということで混同が起こったらしい。歩112については『二十四の瞳』に触れたとき言及した。ヒデキの不興を買った辻ーんが大本営から第33軍に飛ばされたのは19年7月のことで、ハ号作戦が舞台の『闘魂』とはすれ違いになる。



迫撃砲の話題に関連して『華中作戦』を取り上げたことがあった。連隊長が迫の待ち伏せに遭い、テンパってしまう話である。この連隊長は今井亀治郎という。冒頭の佐々木によれば、第25軍の山下中将の忌避にふれて田舎連隊に飛ばされてきたらしい。今井にも辻ーんとの絡みがある。マレー作戦時、近衛師団の参謀長だった今井は、大本営から作戦指導に来た辻ーんと険悪な関係にあった*1



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『長沙作戦』は、歩236の連隊長である亀川大佐の物語である。迫でテンパった今井大佐は、亀川大佐の後任だった。佐々木戦記は、作戦主任として連隊本部に詰めていた彼による、連隊長の観察記といってよい。


後任の今井大佐と違い、亀川大佐に対する佐々木の筆致は概して好意的である。連隊着任時、マラリアや討伐で申告に来られない佐々木を亀川大佐が心配する件が出てくる。陸士で軍神のような連隊長の話ばかり教わってきた佐々木にとって、亀川大佐はごく当たり前の人間に見えた。後になって今井大佐や三代目の小柴大佐に仕えてみないと、普通でありつづけることがいかに困難かわからない。



第二次長沙作戦の撤退時、重囲下に置かれた連隊が奇襲を受け、大隊長が戦死したことがあった。亀川大佐は「黙然と端座したままで、時々眉がピクリと動いたが表情は普段のまま」大隊長の補充要員を送り出す。今井大佐や小柴大佐だったらテンパっただろうと佐々木は記す。迫でテンパった今井大佐は、進出を命じた大隊に以後の攻撃命令を出し忘れ、作戦を停滞させてしまった。



『長沙作戦』の巻末に亀川大佐の回顧がある。彼は佐々木に問う。



「職責上、平静を装ってたつもりだが、見苦しいところはなかったか? 凡人だからテンパるのは仕方ないが、いざ俺が慌てると、無用な犠牲が出る。勇敢な人と、臆病に見える人との差は大したものではない。誰だって弾丸は怖い」



亀川大佐の自意識は、後任の連隊長の比較を通して、自己啓発的な興味を誘う。なぜ彼らはテンパったのに、亀川大佐はやせ我慢できたのか。彼は端的に「下腹に力を入れて任務を反芻すれば、自然に平常心に戻る」と述べるだけである。



これは余談だが、『アマデウス』は平常心というものを自尊心のリスク分散の結果として描いている。トム・ハルスの才能に対しパラノイア的な反応を示す人々の中にあって、ヨーゼフ2世とファン・スヴィーテン男爵だけがまともに見えてしまう。宮廷楽長や国立劇場監督と違って、二人の自尊心のリソースはトム・ハルスと競合しない。自尊心のリスク分散が普通であり続けることと関連している。



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『長沙作戦』を佐々木戦記全体から俯瞰すると、現れるのは三人の連隊長のパーソナリティ論でありその比較論である。どの連隊長の世界観が生き残るのか、という淘汰論に物語の関心は向かう。



登場人物の顛末について、佐々木の情報開示のやり方は天然といえるほど容赦がない。陸士の区隊長の池田中尉は19年2月にニューギニアで戦死だとか、助教の佐藤軍曹は少尉候補任官後まもなく戦死したとか、同期でトンボ既知外の山口君は19年4月インパールで未帰還であるとか、初出の人物たちは次行で次々と殺されてしまう。



今井大佐にしても『華中作戦』の巻頭から顛末がバラされる。今井は夫人の急逝を嘆くあまり職場放棄し、敗戦時は関東軍附でそのままシベリアで病没している。



後を襲った小柴大佐は小柴昌俊の実父に当たる人で、気にくわないと大隊長でも人前で殴るパワハラ連隊長だった。敗戦後は守衛として国民金融公庫に勤務。同公庫マンの元部下にはガン無視され、お悔やみに参上した当時の部下は佐々木ひとりであった。



今井大佐と小柴大佐の不幸な顛末をかれらの登板と同時に開示する佐々木は、しかし、亀川大佐のそれを容易に明かそうとしない。結末のあからさまな隠蔽は、後ろ向きな意味合いで、受け手の関心をキャラクターの安否へと差し向ける。今井大佐も小柴大佐も失敗してしまった。では、亀川大佐の人生はどうなったのか。



情報は隠蔽されるだけでは足りなくて、隠蔽の痕跡すらも受け手に悟られてはならない。キャラクターの不自然な不在はかれの生死を疑わせる。顛末に対する受け手の意識にはリスクがある。『プロジェクトX』でいえば、ゲストとしてスタジオに現れないキャラクターの不在*2。ところが、あえて隠蔽を剥き出しにすることで、持続する興味もある。すでに受け手の好意は、亀川大佐へと誘導されている。後任の連隊長たちの顛末は不穏な兆候となり、好意のあるキャラクターの安否を気遣わせる。かくしてスリラーが醸される。



佐々木戦記の語る造形の淘汰は、遡及的に確認された興味だったといえる。「男たち不屈のドラマ 瀬戸大橋」が実のところ瀬戸大橋の話ではなかったと遡及的に確定するのと同じだ。露呈されたキャラクターの不在が卑近なスリラーをかえって導き、卑近なスリラーによって狭められた受け手の視野からは、今度は何事かが隠蔽されている。亀川大佐の人生を俯瞰するエピローグを通して、受け手にはようやく、作中で連隊長たちの世界観が試され、それらの淘汰が行われていたと判明するのである。