仮文芸

現代邦画とSFの感想

必然を知る 『デス・プルーフ』


オースティンの田舎道でジュリアの生足と対峙し、今まさに彼女らを轢殺せんとするスタントマン・マイクが、強烈なよろこびで私を満たしてしまう。これは何なのか。



いたずらに序盤の尺を浪費したガールズトークがこれから報復されようとしている。私はそこで語り手の価値観と和解を迎えようとしている。いらだちを煽ったガールズトークの冗長さが、報復のよろこびを高めるための前提だと知ることで、私は語り手の価値観や自意識と出会っている*1



車窓から突き出されたジュリアの生足は、世界には意味があったという、伏線を回収するよろこびでもある。ガールズトークへの憎悪が回収されようとしているように、単に語り手のフェチの反映だと思われた生足の謎が今や解き明かされようとしている。あの生足はなぜ突き出ていたのか。オースティンの田舎道でスタントマン・マイクが教えてくれるのは、必然を知るよろこびなのだ。



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物語で現れる不自然には意味があり、未来が開示されつつある体感を受け手に知らしめるために、フラグはあえて露骨に立たねばならぬ。レバノンの飯屋で女たちの武芸談義が前半のガールズ・トークを彷彿とされる冗長さで花開いたとき、すでに物語の世界観を知り馴致された受け手は、この不自然に意味があることを知っている。



あろうことか、スタントマン・マイクが退治されようとしている。つまりは、私が滅ぼされつつある。



後半に至るや、必然を知るよろこびは反転し、未来を否認する心理プロセスが受け手を巻き込む。前半で明かされた語り手の価値観からすれば、私の滅びは矛盾する。これは女性嫌悪の物語ではなかったか。したがって無理矢理合理化すれば、ゾーイらのガールズトークはフラグ潰しなのであって、女性嫌悪劇を望む受け手にスリラーの効果を狙ったものに違いない。けっきょくは女たちは滅ぼされ、今わたしが感じている不安は浄化を高める手段に過ぎない。しかし、前半そのものがフラグ潰しとしたら? 今わたしが経験しつつある、未来を知る苦悶こそ、語り手が受け手に対して欲望したものとすれば? 答えは明らかだが、欲望は宿命を拒絶し続ける。スタントマン・マイクが追うのは70年型のダッジ・チャレンジャーではない。われわれは語り手の価値観とカーチェイスを繰り広げるのだ*2



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死への心理プロセスがそうであるように、未来への否認はやがて受容期を迎える。実際の結末に至り、女たちに袋叩きされる私を画面越しに眺めながら、私は、飲み屋の喧噪に背を向けバーボンを煽るクエンティンのことを想った。あれは運命に従順する背中ではなかったかと。