宮崎あおい、アニメ声の向こうに 『害虫』


宮崎あおいはでかい。冒頭のリビングで、りょうと対座する宮崎がフルサイズで収められる。受け手は早々に、この童顔が母を凌駕しかねない体躯を従えることを否応なく知らされてしまう。宮崎が廊下を進めばフローリングは軋みを上げ、椅子から飛び降りれば地響きが鳴る。帰宅すればヨーグルトを屠り、その体躯の膨張はとどまるところを知らないように見える。



少女の巨大感の強調は、宮崎の起用に際して想定される受け手の嗜好にはそぐわないものだろう。何よりも体の大きさが童顔とあの忌まわしいアニメ声に釣り合わない。小学生のコスプレに身をやつした宮崎は、その巨大な体躯をベッドに横たえ、田辺誠一を誘惑する。田辺は、女のグロテスクな様に息をのむ。厳粛に抑えられた声域は、遠い叫び声を迫られるや否や、「Q造さ〜ん」とアニメ声の本性を露わにしてしまう。



これを怪獣映画と明確に定義する語り手が宮崎の巨大感を強調するのは自然だ。しかし一方で、宮崎のアニメ声や童顔性までも衆目に曝し、巨体との矛盾で受け手を混乱させるのは解せない。これでは怪獣映画の趣旨に外れてしまう。なぜ巨大感だけではなく、敢えて童顔性までも暴露せねばならなかったのか。




怪獣映画としての本作は、ゴジラ'84のプロットを踏襲するものだろう。浜岡原発へ向かうゴジラのごとく、宮崎あおいは田辺の働く原発へと向かう。宮崎の境遇に感情移入すれば、少女のロードムービーの完遂が受け手の願望になる。ところが、これを怪獣映画とすれば物語の様相は異なってくる。宮崎あおいを炉心にたどり着かせてはならない。そうなればいかなる災禍が人類を襲うかわかったものではない。



再び宮崎あおいの視点に立とう。原発へ到達するために、彼女はわれわれの警戒線を突破せねばならぬ。いかにも怪獣然とした巨体は目立ちすぎで、人目をかいくぐれそうもない。彼女は自らの怪獣性をそこで偽装せねばならない。巨大な少女のアニメ声と童顔の意味はもはや明らかだ。それらは偽装の手がかりとして作動し始める。



蒼井家に火を放った後、自称少女は原発へ自らの巨体を放り込むため、童女性とは不釣り合いだった肉体を相対的に縮小させる。木下ほうかの長距離トラックはトロイの木馬だ。宮崎あおいを納めた巨大なキャブはわれわれの遠近感を狂わせ、女の巨体を少女の身体に錯覚させてしまう。木下から渡される林檎の不自然なサイズも女の縮退に手を貸している。



終盤のコーヒーショップで宮崎を待ち受ける俺たちの伊勢谷友介は、怪獣映画の文脈から見れば、いうまでもなくスーパーXであり人類最後の希望である。伊勢谷は女の正体をたやすく見破る(「キミ17歳?」)。女は、おそらく作中で初めて見せるであろう驚愕の表情を浮かべる。そして伊勢谷のミニバンに乗せられ、炉心から急速に隔離される宮崎あおい。人類はこれで救われたのだろうか。否、少女はそれから十年の歳月をかけて炉心にたどり着き、原子炉建屋を吹き飛ばしたのである。



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伊勢谷の力を以てしても、人類は宮崎あおいの災禍を防ぎ得なかった。その意味ではこれをある種の文明論と見ることはできよう。と同時に、文芸的感情というものもある。あの不幸な少女は十年の歳月を経て、ようやく先生の元へ帰れたのである。