ワナビ地鎮祭 『桐島、部活やめるってよ』『glee』


スクールカーストは、卒業とともに解消されかねない季節ネタである。階級差が後々の人生にまで波及するような、ある程度の抽象化が行われないと、社会人ユーザーには訴求し難い。スクールカーストに端を発した『桐島』も『glee』も、やがてそれを越えた問題を提起せねばならなくなる。



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『桐島』には作者と映画部の間に不自然な近しさがある。イケメンで運動のできる宏樹君に映画部が羨望される件には、どうしても、パンツをおろしている作者の姿が見透かされてしまう。ファインダー越しの作者は、宏樹君の心理に介入し、宏樹君の泣き顔をズリネタにして、自らの承認欲求を充足させている。映写幕を前にしたわたしたちも同様だ。



作者の邪念さらに肥大して、投げ出されたZXM500を痛ましく見つめる橋本愛として結実する。これではもはや北米演歌である。 "I Think She Still Cares" である。






映画部を勝ち組にするかぎり、話は文化系のインナーサークルを越えることがない。これは興行的には正しい態度であろう。イケメンで運動のできる宏樹君が単館系へ足を運ぶことはない。だからといって、宏樹君をズリネタにした文化系のオナニーだと高らかに宣言してもらっても困る。余計みじめになってしまう。せっかく橋本愛の『鉄男』の件で行った、橋本愛でも単館系へ行くかもしれないという幻想の合理化も、北米演歌で台無しである。



映画部は作者の性急な邪念を具象しすぎている。邪念の露見がわたしたちのオナニーを萎えさせてしまう。偽装工作として邪念を潤色せねばならぬ。あるいは普遍化して、文化系のインナーサークルから物語をサルベージしたい。そこで、現状肯定でしかない映画部の代替案として物語が用意するのが、部活を引退しない野球部のキャプテンや自己乖離に陥ったバドミントン部の実果である。



実果は嘆く。



「なぜわたしたちは頑張るのだろう」



オッサンも嘆く。



「なぜワシは、こんな深夜に千葉さおりの練習をするのか」



ワナビが充足するか否か、映画部の未来は保留されている。「おそらく充足しないであろう」と神木君は謙遜する。だが、それをいわせているのが吉田大八・第36回日本アカデミー賞最優秀監督賞である。



野球部、バドミントン部とオッサンであるわたしにとって、ワナビの判定結果はすでに明かである。この活動を続けたところで、ワナビが充足することはない。希望はもはや失われた。楽しいからやるのでもない。そうであれば、映画部のようにそもそも問題は提起されない。わたしには千葉さおりの練習が苦痛でたまらない。にもかかわらず、なぜやめられないのか。物語は、スクールカーストワナビの充足問題へ移行させることで、文系のインナーサークルを越えようとする。一方で、明確な答は最後まで用意されない。野球部キャプテンの訴えは焦燥感に近しい。続けるより仕方がないものと彼は表現し、未来への責任を迫る得体の知れない道徳感情を暗に指摘する。ワナビ判定が下されたからといって、今ここで千葉さおりの練習をやめてしまったら、十年後、二十年後のわたしは、わたしの決断を責めることだろう。これは何なのか。



glee は season1 のラストでこう答える。それは環境操作の担保であると。



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『桐島』が行った映画部と宏樹君の対比を、glee は生徒と教師の対比へ転換する。ニュー・ディレクションズの面々には、ワナビの判定結果はいまだ下されていない。彼らが頑張る理由は自明だ。頑張るのはワナビの実効のためである。対して、顧問のウィルやスーをはじめとする大人たちには、すでにワナビ判定が下されている。頑張る理由をめぐる課題の当事性を負うのは彼らである。課題に解答する動機は大人たちにこそ生じる。では、その答とは何か。教え子たちを前にしたウィルは、Over The Rainbow を参照して、彼らの行為する意義をその詩に帰属させる。



なぜ頑張るのか? 曰く、



"Somewhere over the rainbow, there's a land where the dreams that you dared to dream really do come true."



虹の彼方にはブロンソン大陸がある。そこではどんな夢でもかなってしまうという。もはや夢破れたオッサンなのにこれは如何。夢がかなうとは何か。曰く、



"That's where troubles melt like lemon drops."



夢のかなう内容には踏み込まれない。代わりに、悩みが消えるプロセスに言及がある。ブロンソン大陸では悩みが"melt"すると表現され、何らかの可塑性が示唆される。つまり、そこは変わることができる場所であり、変わることで到達する場所である。これは修練論であり、失効したワナビのもたらすフラストレーションを、技術論を以て希薄にしようとする試みである。千葉さおりの練習は技量の可塑化である。修練にもたらされる個体の可塑化は、やがて環境の可塑性へ至るはずだ。千葉さおりが描ける。千葉さおりはもう俺のものだ。技量に従属する自然からもたらされる感覚。わたしたちがそこに見るものとは何か。



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The Best and the Brightest: Kennedy-Johnson Administrations (Modern Library) (English Edition)
The Best and the Brightest は、マチスモを基準に人を判別する人物としてリンドン・ジョンソンを描いている。activists や doers は男とされ、対等の人間として扱う。talkers and writers instead of doing は童貞と分類され、相手にされない。



スクールカーストの亡霊は生きている。卒業イベントを経ても消失することはない。内向性やコミュ障が、環境へ働きかけようとするわたしたちの勇気を打ち砕くとき、スクールカーストの亡霊は甦る。



ワナビの充足が環境の可塑化と定義され、ワナビカーストと正相関する世界では、ワナビカーストからのサルベージと見なすのは誤りだ。しかし、環境への働きかけが失われても、コンドルセ的な、あるいは監獄の天上に四色定理の地図を視る(『容疑者Xの献身』)ような、許される夢もある。内向性がその奥底に、対象化したわたしという最後の環境を見出す夢想である。環境に立ち向かう勇気はもはや失われた。しかし、わたしには、わたしが残されている。わたしを変えることはできる。千葉さおりを描けるようわたしを訓致することはできる。



二十年後、あるいは三十年後。わたしは千葉さおりが描けている自分に気づくことだろう。俺のものになっている千葉さおりを見出すことだろう。そして、わたしたちは、技量に従属するその自然に自由の幻想を見ることだろう。



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宏樹君とウィルは、物語の最後で、いまだワナビ判定の下されざる者たちを観察し、そこに何らかの評価を下すことになる。宏樹君は羨望のまなざしを送り、ただひとり、カーストを俯瞰する高みに至った。その羨望が、諦念を経て、教育者の道徳感情へと昇華すると、ウィルが未来ある教え子たちへ手向ける表情となる。



「なぜ私たちは頑張るのだろう」



すでに答え知っているわたしたちが、彼女にそれを告げるとき、わたしたちはきっと、教え子たちを見守るウィルのような、深い慈愛を浮かべていることだろう。