恋愛決戦架空戦記 『大都会 闘いの日々』


『大都会 闘いの日々』は四課物でありながらも、その印象は薄い。各話完結のマル暴話をまとめ、シリーズの一体感を作るのは、渡と篠ヒロコの、公安物のような協力者の工作プロットである。


篠ヒロコはヤクザの情婦で、渡に進んで情報提供する。渡は危険だと言うが、渡に惚れた篠は聞かない。


渡と篠の間には情報の落差がある。


篠が情婦であることを渡は知らない。ヤクザの知人だと考えている。篠は、自分が情婦であること渡が知らない、ということを知っている。この段階では、篠に優位性がある。


協力者をめぐる情報の非対称性のレイヤーは恋愛のそれとも絡まってくる。


渡は、情報を呉れる篠の好意に気づいている。篠も渡の好意に気づいている。しかし、どれほどの好意か、互いに決定的な確証がない。


渡に縁談が持ち上がると、このバランスが崩れ始める。


渡は泥酔して、篠の前で羽目を外す。篠の微笑みは哀調を帯びてくる。


「お受けになったら?」


「受けるかこの際!」


互いに互いの好意を知っているのである。はしゃぎたてることで男は自らの希少性を女に売り込んでいる。女は気にしない振りをして、男の希少性を無効にしようとする。


『大都会』はこれを機に、童貞の未成熟な恋愛観に翻弄される痛ましい大人たちの物語へ変貌する。


渡と別れた篠は、肩を落としながら自室へ向かう。エレベーターに乗り込み、振り返ると、先ほど別れたはずの渡がそこにいる。


渡は篠の口唇を奪う。


「ケッコンして呉れ、あんたしかいない」


勇気を使い果たした渡は、篠の返事を待たず、脱兎のごとく駆け出すのであった。


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空想に恋愛を求める他はない童貞の世界観は、恋愛を決戦という専断的仮定としてとらえがちである。愛の始まりは生成というよりも決断に近い。渡が、篠の口唇を奪うと決断せねばならなかったように。


恋愛の決戦主義は、決断のポイントが明確であるゆえに、後悔が先鋭化して、if戦記化の土壌ともなる。もしあのとき決断をしたら、別の選択があれば...


アニー・ホール』のラスト。


女と破局した男は、代わりに自作の戯曲の中で、現実では破綻した恋愛を成就させようとする。


男が見守る舞台の上では、現実がそうであったように、男と女が別れ話をしている。立ち去ろうとする男。ところが、女は男を引き留める。


『秒速』のラスト。


踏切を渡る男は、女とすれ違う。女には、かつて愛した女の面影がある。振り向こうとした男には確信があった。もし、ここで振り返れば、女も振り返るはずだ。


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『大都会』には、渡と篠の前哨戦として、仁科明子神田正輝の絡みがある


仁科は渡の妹である。ヤクザに輪姦された過去を、仁科は神田に知ってほしくない。しかし、神田は知ってしまう。男の気持ちは変わらないが、女は過去から逃れ得ない。


仁科は神田に電話で別れを告げ、電話ボックスを後にしようとする。しかし発作的に駆け戻り、再び受話器を取ろうとする衝動と闘う。引き返せる選択肢が強調される。


この感覚は、再度、渡と篠の間で再現される。


渡の告白以降、渡と篠の非対称性には変化の兆しが現れる。


渡は、篠がヤクザの情婦であることを知ってしまう。ところが篠は、渡が今だその情報を知らないと考えている。篠は、自分が情婦であること渡が知っている、という情報を知らない。渡と篠の力関係が逆転する。


渡は篠に疑念を表し、篠を試してしまう。ヤクザの情婦ではないかと。渡が真実を知らない可能性に賭ける篠は、それを否定する。即座に彼女は気づいてしまう。自分が賭けに失敗し、渡との信頼が損なわれたことを。そして、この恋愛が破綻したことを。


篠は立ち去ろうとする。渡は彼女を呼び止めようとするが、やはり行かせてしまう。引き返せる選択肢の提示が、後悔を煽る。


ここで刑事ドラマとしての『大都会』はほぼ終わる。渡から篠へ視点が移行するにともない、刑事ドラマの域を超え始める。それは渡ではなく篠の物語だ。


帰りの車中で、女は破局を悲しみ、失敗した選択を悔やみつづける。


男への別れの電話で、女は男に或る架空戦記を語りつづける。


「本気で暮らせると思っていた、何日か前まで、昨日まで、さっきまで...」


違う選択肢がありえた。後悔の架空戦記を駆り立てる仕掛けが、時間のスケールに変換され、ここでは再現されている。