あの神秘は俗物だった 『言の葉の庭』

はなざーという人はわかりやすい。



タカオ君とのファーストコンタクトに際して、作者は、タカオ君の襟に校章を認めたはなざーをぎょっとさせている。この演出は一見して野暮ったい。伏線が伏線であることをはなざーの驚愕が説明するのだが、説明されたものはもはや伏線といえない。そもそもタカオ君の着用する制服から判断できそうなことである。



伏線はそれと悟られたら無効となる。しかし、何らかの違和感を与えねば、それはそれで伏線は成り立たない。あれは伏線だった、という回顧が生じない。必要なのは、はなざーがタカオ君の校章を認識したという情報だけであって、タカオ君の校章のアップから、はなざーのアップショットにつながったとき、そこで驚愕させるのは過剰であり、品がない。にもかかわらず、はなざーは驚かずにはいられない。



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タカオ君ははなざーのどこに惚れたのか*1。それを受け手へ具体的に示さないことは、ある種の問題提起になっている。わたしたちには見出せ得ないはなざーの魅力を、タカオ君は感知しているのだ。はなざーの隠れた魅惑を発見したいと思わせれば、受け手の興味を誘導する作劇の努力が奏効していることになる。また、わたしたちにはわからないものをタカオ君が感知したことを強調すれば、タカオ君の感受性を謳いあげる話になる。



では、わたしたちの知らぬ、しかしタカオ君にはわかっているはなざーの魅惑とは何か。



タカオ君が愛の告白をしたとき、恋愛ゲームの勝利に陶酔したはなざーは、自らの希少性に浮かれあがってしまって、虚勢を張ってしまう。



「ユキノさんじゃなくて、先生でしょ☆」



わたしはこの時、はなざーの驕慢な顔立ちに憤怒のほとばしりを感じた。これまで何の喚起ももたらしえなかった人物が、ネガティブな意味合いとはいえ、はじめて、わたしの感情に訴えかけたのであり、作者は造形の重さをついに表現しえたのである。同時に、タカオ君がすでに知っていたものが、わたしたちの眼前に広がり始める。



タカオ君の逆襲を喰らうと、はなざーの虚勢はたやすく脱落する。彼女は膝を屈してしまう。タカオ君がわたしたちに暴いたのは、自身の感情に対してきわめて献身的な、はなざーという人物のわかりやすさである。タカオ君の中では、はなざーの虚勢癖ですら、わかりやすさとして回収されている。タカオ君の人徳は、思春期特有の気高き宿痾を愛らしさと解釈するのだ。



冒頭の失敗した伏線は、じつのところ生かされている。見え透いた伏線がフェイントとなって、別の伏線を仕込んでいる。タカオ君が勤務先の生徒であるという情報ではなく、タカオ君に反応せざるをえなかったはなざーの人の良さが仕込まれている。彼女の驚きは、職場についての示唆ではなく、そう反応せざるを得ない彼女の人の良さを暗に表現していた。



ファーストコンタクトで挿入される、校章を認知するはなざーの主観ショットには唐突の感があった。タカオ君の視点で通してきたシーンにあっては、これは文法エラーととられかねないほど野蛮なカットつなぎである。わたしたちは、終盤で花苗と化したはなざーを見て、その冒頭の違和感が合理化されたことを知るのである。



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ああっ女神さまっ』の冒頭が、よくわからなかった。螢一が沙夜子にデートを申し込むのだが、沙夜子のような女性が螢一の好みとは思えなかった。後に、能登麻美子声を出すこの女の天使性が明らかになると、わたしたちは沙夜子とともに螢一をも理解するのである。この男は、わたしたちが知るずっと以前に、この女の天使性を把握していたのだと。