スペルマ・タイド・ライジング 「コスモナウト」『秒速5センチメートル』

あのH-IIの打ち上げ場面をイメージだと誤解する人がいるらしい*1。「コスモナウト」は宇宙開発とは関連のない青春恋愛劇である。そこに、1分弱8cutを費やしてロケットの打ち上げを挟み込むのだから、場面が本筋から浮きかねず、カテゴリーエラーと採られても仕方がない。タカキ君の心象を描いているのは何となくわかるのだが、では、違和感をともなうほど粘着的な打ち上げの描画を以って、語ろうとしたタカキ君の心理とは何だったのか。



辺境の地で、タカキ君は明里を聖化してしまった。ロケットの打ち上げは、タカキ君の病的な孤独を、深宇宙を行くスペースプローブのそれに転義しようと試みている。この比喩を理解するためには、前提として、明里への過剰崇拝がタカキ君のなかで爆誕していることを、わたしたちが知っておかなければならない。ところが、作者はこの辺の説明には禁欲的だ。時折、タカキ君が明里とデートする謎空間が挿入され、タカキ君の狂気が示唆される。これがタカキ君の妄想であり、明里とは破綻していたことをわたしたちが具体的に知るのは、「秒速5センチメートル」の冒頭を待たねばならない。



「コスモナウト」において、タカキ君の狂気と明里との破綻を具体化しないのには理由がある。明里とタカキ君の顛末は、伏せられることで、受け手を惹きつける謎として作動する。一方で、あくまで伏せられるために、H-IIの意味合いがわかりにくくなっている。少なくともロケットを比喩として機能させるためには、違和感を残すほどの微細な描画は避けるべきである。ふたりの背後をナメて打ち上がるロケットの、静的なロングのカットで事足りたのではないか。それを思いっきり寄ってしまって、しかもフォローする望遠を再現して画面は激しく振動するから、静かに壊れつつあるタカキ君の心象にはふさわしくない。



轟音を発しながら天に昇るH-IIがタカキ君の性衝動だと気づいたのはごく最近のことである。



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「コスモナウト」は病的なナルシシズムの詩である。弓道場でタカキ君に声をかけられた花苗はのぼせ上がってしまう。彼女の視線の向こうには、三白眼のタカキ君が暗い微笑を浮かべている。狂人の顔である。



この外道は、花苗の動揺を把握し、それを享しんでいる。そもそもタカキ君は花苗に興味がない。純朴な田舎娘を狂わせたおのれの色香に陶酔しているのである。アレは「どうだ男前だらう」という誇示の微笑みなのだ。



わたしたちはなぜタカキ君の微笑に、彼のナルシシズムを投影せざるを得ないのか。このシーンを構成する視座を考えてみよう。まず花苗が駐輪場から弓道場へと向かう。その過程で三人称の視点が彼女の視点へと集約されてゆく。カメラが弓道場の中へ切り替わると、タカキ君の視点に変わる。彼が花苗の姿を認め声をかけると、今度はのぼせ上がる花苗のバストショットがつづく。つまり、この瞬間、カメラは花苗の心理を切り取ることで、視点をタカキ君から花苗へ切り替える。次に来るのが問題のカットだ。花苗の視点の向こうにある、例の暗い微笑を浮かべたタカキ君のバストショットである。



タカキ君のバストは、彼から花苗へ視点が切り替わっている以上、花苗のPOVのはずである。ところが、切り替わりが急激に起こるため、惰性としてタカキ君の視点が混入するような錯覚が出てくる。わたしたちはそこで、暗い微笑を浮かべるタカキ君の内語を想像するよう否応なく迫られるのである。



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見るもおぞましいナルシシズムの詩は、タカキ君という碌でなしに引っかかってしまった花苗の心理に寄り添うことで、彼女の哀しみとその心性のやさしさを謳いはじめる。タカキ君の悪魔的なナルシシズムは、H-IIのシーンに至るや、ほとんど精神的な暴力として花苗に襲いかかることになる。その圧迫は、彼女をDV文学のヒロインへと昇華する。



打ち上げの直前、今度こそ男に告白しようと決意する花苗。しかし、男のあまりの色香に動揺するばかりである。男は作者そのものであり、娘の心理は最初から筒抜けである。このド外道は、娘の苦悶に戸惑いを装い、ぬけぬけと言うのだ。



「どうしたの☆」



娘は作者のズリネタとしてこの世に生を受けたことを知らない。男の色香にここまで混乱をきたすのは、作者の裁量によるものだが、娘にとっては不条理そのものである。



たまらず彼女は叫んでしまう。



「やさしくしないで」



3秒後、地平線からロケットが打ち上がる。タカキ君(作者)の射精である。この3秒の間は、射出するスペルマの粘度の表現であり、濃度の示唆である。無理もない。そうとう溜まっていたらしい。



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新海誠という稀代の基地外のズリネタとして誕生し、物語という牢獄に投じられた花苗は、それでもなおその生を肯定せずにはいられない。被造物であり自由意志を欠いた花苗が、自分の責任の範疇にはない事態を引き受けようとするとき、物語はナルシシズムを超えた寓話に至ろうとする。『秒速』の連作中、最凶と称される本作はまた唯一の救済でもある。