わたしたちはズリネタではない 『秒速5センチメートル』

雪中の両毛線に閉じ込められてしまったタカキ君。明里との約束の時間はとうに過ぎてしまった。タカキ君は焦燥する。その吐露の内容がまことに彼らしい。



「あかり、どうか...」



この場面を見ていたわたしは、「待っていてくれ」という願望の台詞が後つづくものと予測した。ところがタカキ君の発想は異なるものだった。



「...家に帰っていてくれ」



約束の時間から4時間が経っている。明里はすでに帰っているものとわたしは想像した。だが、この男は、明里が駅で待っていることを微塵も疑わない。自分の色香が明里を拘束すると確信するのだ。ゆえに、その拘束が人に及ぶのを怖れるのである。



言の葉の庭』でもこの確信の感覚が描かれている。タカオ君がはなざーの自室から飛び出す件である*1



激昂したタカオ君を追って、はなざーも裸足で駆け出す。このとき、わたしは考えた。このあと、はなざーは、雑踏に消えたタカオ君の姿を捜し求めるはずだ。テンパるはなざーが活写されることで、矜りという彼女のパンツは引き剥がされ、わたしたちは彼女のことを初めていとおしく思うことだろう。そのように予測したのである。ところが、はなざーが通路に出てみたところ、タカオ君は踊り場でぼけ〜っと外を眺めていたのだった。自分の色香に自信がありすぎるあまり、彼には街頭に消えるという発想が出てこない。はなざーはとうぜん自分を求めて追ってくるだろうと確信し、叫喚する女を抱擁すべく佇むのである。



+++



「コスモナウト」の劈頭は、狂人の静寂に満ちているようでいながら、タカキ君の混乱が方々で観察される。



タカキ君は妄想空間の丘陵を明里とともに登り、謎天体の出没を眺める。地平線から明里へと視線を移した彼は、彼女の存在を確認すると、また地平線に視線を戻し、満足の表情を浮かべる。わたしは、ここのタカキ君の芝居に違和感を覚えた。妄想空間は、明里に狂信したタカキ君の産物であるはずだ。だが、妄想空間での彼は、当の明里には一瞥しか与えず、興味のある素振りを最小限にしようとする。これはなぜか。女の存在を確認すべく一瞥したとき、タカキ君は、女が傍らに座っているにもかかわらず、まるで彼女がいないかのような哀切の表情を浮かべる。タカキ君は知っているのだ。女が妄想の産物であることを。



タカキ君は分裂し混乱している。こんな妄想空間を作ってしまった自分の狂気に彼は半ば自覚的である。一方で、女から水平線に視線が戻ると、彼は心底満悦した表情を浮かる。その顔に先ほどの自意識の残滓はもはや見当たらない。タカキ君の世界は一転して自閉し、わたしたちに狂気を印象付ける。



タカキ君の自意識の発見は、彼の被害者性を認定させる。同時に、この青年を天然のおもむくまま手玉に取った明里という女の狂気性が争点となってくる*2。雪中、明里が待っているに違いないと確信したタカキ君はどこかズレている。しかし、それに応じて待っていた女も狂人なのではなかったか。そして、別れ際に女は「タカキ君なら、この先も絶対たいじょうぶ」と確信を述べる。この狂人の、まったく当てにならない確信が、タカキ君の人生を破壊してしまう。



どれほどの速さで生きれば、君に追いつけるのか。「コスモナウト」を通じて行われるのは、キャラクターからキャラクターヘ向けられる視点を誘導路にした、物語の課題の焦点化である。花苗はタカキ君を見つめている。しかし、タカキ君のまなざしは明里にある。では、あの丘陵で明里は何を見ているのか。明里とはそもそも何者なのか。



+++



秒速5センチメートル」のラストは冒頭と同じシーンで終わっている。タカキ君が明里らしき女と踏切ですれ違う。タカキ君は懲りていない。いま自分が振り返れば、女も振り返ると感じてしまう。この確信が破られることで、わたしたちは作者の自意識へ到達するのだが、問題はそこにとどまらない。



冒頭とラストの踏切シーンを比べると、細部に差異が見受けられる。



最初の踏切でふたりがすれ違うとき、タカキ君の気づきのアップショットが来る。直後に女の横顔のアップが来る。その表情は伺えない。女がタカキ君に気づいた素振りはない。ラストの踏切で、ふたりは再びすれ違う。タカキ君の気づきのアップショットが来て、明里の横顔のアップとなる。ところが、今度の明里は気づいてしまう。



冒頭の踏切の方が、視座の構成は美しい。女の表情を伺わせないことで、その内語を露呈させず、タカキ君の視点を一貫させている。タカキ君の視点で明里を神聖化した「コスモナウト」の流れからすれば、この視座の方策は整合的である。他方で、ラストの踏切は、女の気づきを入れることで、彼女の視点を一瞬、流入させてしまう。そこで、女にも未練らしきものが託されてしまう。これはタカキ君の未練の投影にほかならない。しかし、女の内面開示の結果は残虐だ。



冒頭の踏切で、女はタカキ君に気づかない。あるいは、そう解釈できる余地が残される。渡り終えたところで、女は振り向こうとする。彼女はタカキ君に気づいたのかもしれない。あるいは、男とは関係がなく、別の注意に惹かれたのかもしれない。それともすべてはタカキ君の夢見る幻想なのか。



最後の踏切は、女の視点を流入させることで、わたしたちの解釈を残酷なやり方で定着させる。女はタカキ君に気づいている。その上で、彼女は立ち去ってしまう。女には未練の欠片もないことが、解釈の余地なく提示される。



冒頭とラストの踏切の間にあるもの。それは、「コスモナウト」で非人格された明里の人間性を取り戻そうとする運動である。ラストの踏切で、女の気づきを入れ、女の視座を割り込ませることで、彼女には初めて選択の余地が与えられる。岩舟ではどんなに時間が経とうとも女は待つより他はなかった。彼女はズリネタだからだ。しかし、踏み切りの向こう側の彼女は選択することができる。とどまるべきか、立ち去るべきか。タカキ君は女の選択を見守る。そして女の決断を受け入れる。



あの誰もいなくなった、踏切の向こう側の虚空は、明里の叫びを表現している。わたしはタカキ君の夢想ではないと。彼女だけではない。タカキ君と花苗の叫びもこだましている。彼らは、破壊尽くされた人倫の焼け跡たるあの丘陵で、血飛沫を上げながら、絶叫するのだ。わたしたちはズリネタではない。人間であると。