今度は意味がある 『刑事追う!』と『藁の楯』

もともと、扇沢延男脚本を目当てに『刑事追う!』を見始めたのだが、その扇沢脚本の初回が4話目の「陰画」である。前にあらすじを紹介した。次のような陰惨なはなし。



男の妻はふたりの娘を残して夭折していて、その娘のひとりも強姦殺人の被害者となり、この世にない。男手ひとつで育てた次女は、幸福な結婚を迎えようとしていたが、試練は終わらない。汚職警官が強姦殺人された長女の現場写真を流出させ、それが強請の種に使われてしまう。男は逆上して強請屋を殺害する。



ラストで男は「けっきょく、娘ふたり、幸せにしてやれなかった」と嘆くのだが、これは正確な認識ではない。妻の病死と長女の強姦殺人は、男には責任のないことである。しかし、次女の破談に対しては、そうともいえない。流出写真で強請ってくる男を前にして、彼には初めての湧き上がる感情がある。



今一度耐えるべきか、キレるべきか。



これまで、受動的に不幸が襲い掛かかってきた人生にあって、ようやく自分の選択で不幸になれる機会が訪れた、と解釈できる。長女の死に際して、彼には選択の余地はなかった。次女に至って、娘を不幸にしたという責任を彼は実感できた。



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今頃になって「陰画」を思い出したのは、先日見た『藁の楯』が不可解だったからだ。



藁の楯』は大沢たかおの抱える課題を、課題として機能させない。あるいは、課題が機能しないことを課題とするように見える。サイコパスの人権を守る理由がたかおにはわからない。しかしこれは、法の実効性の担保といってしまえば、そこで終わってしまうシンプルな問題に見えてしまう。法の支配による厚生への寄与は実証的に明らかだから、たかおの課題は工学的問題であって、文芸的リソースを割く課題とは思えない。



たかおは、サイコパスの人権問題の受容について、属人的なやりかたをする。妻が「守れ」といってるらしい。



たかおの妻は飲酒運転の犠牲者であり、たかおはその死に責任がない。妻の死には彼の意思は介在していない。他方、サイコパスの人権問題に対して、彼は自分の意志を働かせることができる。少なくとも彼はそう考えている。今度は選択できるという感覚をたかおは持つことができる。



たかおがそこで試みているのは、仕事を通じた療法の実践だと思われる。たかおの妻は無駄死にである。しかし彼は、ほんらい選択の余地がない問題の中に選択肢を誤認することで、妻が正しい選択に自分を誘導した、と解釈することできる。たかおはそこで妻の無駄死に意味を見出せる、という理屈だ。