庶民賛歌を科学する 『男はつらいよ 寅次郎恋やつれ』『模倣犯』


『寅次郎恋やつれ』のラストは少々気まずい。文豪の宮口精二が、とらや住人と邂逅しているのだが、両者ともまるで別の世界に住んでいるため、宮口の娘である歌子を共通の話題にしながら、ややぎこちなく対話を続けるしかない。ここにタコ社長という、更なる異世界の住人が闖入してきて、緊張がピークに達する。どうなるかと思うと、社長は宮口に名刺を差し出す。すると、宮口の愁眉が開き「ご高名はかねがね」と応じる。この場面が好きだ。名刺一枚で、空間と造形の奥行が広がるのだ。



宮口はおそらく純文系の作家だろう。実業界のタコとは、造形の面ではもっとも隔たったキャラだと思われる。ところが、このふたりが名刺一枚で通じ合ってしまうことは、ふたりを媒介する業界という枠組みを浮き彫りにする。そこに開放感がある。閉塞したとらやのセット外には、広漠とした何かが広がっていて、その好ましい奥行が、とらやのセットにいながらにして、名刺一枚で表現されるのである。タコ社長は、シリーズにおいて幾度か、とらやと外界の媒介者となる。



朝日印刷の名刺によって設定された、業界という世界像は、また、タコ社長と宮口の造形的な奥行きを広げてくれる。セットの外に広がる、われわれの知らぬ空間で、このふたりは、とらやにおいてはとうてい発揮されえないであろう実業性を発揮している。わたしたちには、人の実業性に好意を持つ習性があるので、一枚の名刺によって示唆される彼らの特性は、受け手の好意を引き出してしまう。



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課題は、何を以てキャラの造形の奥行を広げるか、であり、何を以て舞台の奥行きを広げてやるか、でもある。シータが森ガールでないことを示すのは、タイガーモス号の伝声管と電話である*1。ジコ坊の実業性を示すのは、茂みから出てくる小隊規模の唐傘連である。わたしはあの場面が好きだ。アシタカとの最初の絡みと、評論家じみたその言動によって、わたしたちはジコ坊を単独行動者と誤認してしまう。とつぜん画面に現れる唐傘連は、立ち上がるというたったひとつの動作で、管理職としてのジコ坊の特性を表現し、彼の造形の奥行を広げる。




舞台の奥行きを広げる例で、わたしが好きなのは、『麦秋』の中盤である。戦死した長男の存在が、菅井一郎の一家に暗い影を投げかけている。この図式が、長男の存在を示唆するたった一言で表現されてしまい、逼塞して退屈なホームドラマが社会的な文脈とつながり、緊張と解放感が体現される。北鎌倉の外には、広々とした空間があり、その南方ではかつて殺し合いが行われた、という感慨である。



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模倣犯』の映画化にあたって、森田芳光はピースの職業を経営コンサルに変更し、彼らしい浮世離れした造形に仕立て上げた。このことは、宮部みゆきの庶民主義をいたく刺激したとわたしは邪推するが、しかし、映画を見ればわかるように、物語の本意は庶民賛歌の否定にはない。



わたしは、ピースが豆腐屋山崎努と間接的に邂逅する場面が好きだ。ピースは山崎をホテルに誘導することで、コンサルと豆腐屋が別世界の住民であることを知らしめ、山崎に屈辱を与えようとする。ところが、この過程でピースは、山崎がただの豆腐屋でないことに気が付いてしまう。自分と同じ実業性を有した豆腐屋であることを、山崎の言動から知ってしまう。山崎の造形がそこで拡張されるのはうれしい。だが、それにもましてうれしいのは、それに気づけたピースの度量である。彼が豆腐屋を認められたことである。山崎ばかりではなく、ピースの造形も広がるのだ。



宮口精二とタコ社長が、互いに隔たった造形にもかかわらず、あの場面の誰よりも通じ合えることは、山田洋次の庶民賛歌である。同様に、コンサルと豆腐屋の邂逅は、互いが異世界の住民であるからこそ、庶民賛歌となりうる事態である。原作通り、塾講師と豆腐屋であれば、この効果は望めなかったであろう。宮部みゆきよりもはるかに、森田にはわかっていたのである。