無題

失恋に対する教訓やオリエンテーションを芸術作品に求めるのはたやすい。失恋が創作の動機となるからだ。ところが、承認欲求の充足に挫折したとき、芸術はガイドとして役に立たなくなる。


チェーホフの『わびしい話』に、才能がなく女優になれなかったヒロインが登場する。彼女は主人公に訴える。承認欲求が叶わなかった今、自分はどのようにして生きて行けばよいのかと。主人公は答えることができない。当たり前である。ここに提示されているレベルの承認欲求であれば、作品を世に出すことで、語り手であるチェーホフには充足済みのことであり、わかるわけがないのだ。それどころか、承認欲求を充足した彼が、ヒロインにこれを言わせることは、嫌味に近い。夢はかなうと、夢をかなえた人間が歌うアレである。


+++


わたしには、わたしの内向的な形質が不可思議である。この性向が災いして、わたしは、けっきょく、恋を叶えることができなかった。では、内向性が、何らかの創造性をもたらしたかというと、ご覧の有様である。つまり、このような性質はとうに淘汰されて然るべきだが、なぜか、わたしに発現し、わたしを苦しめている。


心理学の教科書によれば、石器時代から現代に至る人類の歴史は、性質が淘汰されるタイムスパンからすれば、あまりにも短いという。わたしの内向性は、石器時代の環境においては、利する点があったのかもしれない。だからこそ、生き残ったのであるが、現代の環境とはミスマッチを起こしている。人類の歴史が短すぎて、滅び絶える暇がなく、今まさに、淘汰の真っ最中なのである。


なるほど、よくわかった。で、どうすればいい?