メタボであること 『誰よりも狙われた男』

特殊な環境に放り込まれた人物が、事件に対処するなかで、人生の課題と向き合うことになる。物語の目的はこれを観察することにある。したがって、語り手は、キャラクターを巻き込む事件とは別個に、その人物が抱える人生の課題を用意せねばならない。かつ、事件とキャラクターの課題は互いに連携する必要がある。


人生の課題は、キャラクターの性質に根差すべきだ。さもなければ、課題となりえない。『裏切りのサーカス』のスマイリーには、妻を同僚に寝取られたことで、人生の課題が生じている。男としての資質が問われるからである。対して、『外事警察』の住本を襲った少年期の不幸は、課題として弱い。父親の死は彼の資質とは関係がないからだ。


同じ問題は、本作のシーモアについてもいえるだろう。レバノンで組織が壊滅したことを彼は引きずっている。しかし、これが彼の資質と関連しているのか、一見したところ不明瞭である。中盤以降には、アメリカという外部要因で、レバノンの一件が生じたと明らかにされる。

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人生の課題の可否のほかにも、本作には違和感がある。まず、シーモアをキャスティングした理由がなかなか見えてこない。



職務上、やむを得ない理由でシーモアが部下のニーナ・ホスの口唇を奪う場面が出てくる。奪われたニーナは事後の顔を晒す。わたしは笑ってしまった。レッドフォードではない。相手は気色の悪いメタボなのだ。それであの顔である。


CIA側のカウンターパートであるロビン・ライトに対しても、シーモアは終始、レッドフォードのような挙措で誘惑する。ロビンの方も満更ではない。わたしは、価値観のズレを感じずにはいられなくなった。ここでシーモアは、ロベール・アンリコ映画におけるフィリップ・ノワレのような存在として扱われているのだろうか。メタボ性善説の化身として。


しかし、そう解釈すると、あらたな疑念も生じる。シーモアをレッドフォード然とさせる一方で、語り手はシーモアのメタボ性もことあるごとに強調する。だからこそ、そこに違和感と笑いがつきまとう。



シーモアのストライプのネクタイはメタボ腹にだらしなく寄り添う。冒頭では、狭い車内に巨体を詰め込み、ラップトップを操作しようとして苦悶する、世にも汚らしい絵が展開される。シーモアの自室にはアップライトのピアノがあって、それだけで、笑いを誘われるのだが、カメラはそこで、ピアノを試みるシーモアをわざわざ遠景で収めてしまう。アップライトの前に鎮座した、ダンゴ虫のような丸々とした巨躯によって、今にもピアノ椅子が崩落しそうに見える。



ロビンにニーナを紹介する際、シーモアはニーナの肩に触れセクハラをする。ところが、レッドフォードのように堂々とタッチすればよいものを、彼はそこに幾分かの躊躇を見せる。この挙動はレッドフォードではなく、童貞のそれである。


シーモアがレッドフォードの挙動を行うたびに、かえってメタボ性が赤裸々としてしまう。このあたりから、シーモアの人生の課題が、おぼろげながら見えてくる。また、この話がシーモアというメタボを起用した理由も解されるだろう。彼の人生の課題とは、メタボであること、それ自体に他ならぬ。

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裏切りのサーカス』で、ゲイリー・オールドマンの課題が明確になるのは、中盤を待たねばならない。同様に、本作でもシーモアの課題は、終盤、一気呵成に爆発する。



直前の会議の場面。シーモアはロビンと微笑を交わし、彼女の懐柔を確信していた。ところが、術中にはまっていたのは、シーモアの方であった。確保した協力者がとつぜん拉致され、呆然としたメタボ面をさらすシーモア。振り返ると、車で去ろうとするロビンの姿を認める。レバノンに引き続いて、またしても、してやられたのだった。


ここで絶叫するシーモアの挙措は、レッドフォードの手に負えるものではない。シーモアでなければできない挙動である。そんな彼を、あの事後の顔とは打って変わった表情で、ニーナは眺める。仕事をできない男に対する蔑視のまなざしだ。メタボでなければ、レッドフォードであれば、また違う可能性が開けたかもしれないのだ。


ここにおいて、物語はシーモア自身のキャリアと重なる。しょせんはメタボ俳優である。レッドフォードではなりえず、際物扱いである。最後に、レッドフォードのような役が回ってきたと思ったら、またしてもこの様である。


レバノンの件がアメリカの介入とされたのは、シーモアのメタボ性から受け手の目をそらす誤誘導であった。と同時に、メタボ性のほかにも、人生の課題が設定されていたことになる。


これは、なぜドイツのような田舎を舞台にしたか、今一つの疑問に答えるものだろう。アメリカの下請けをせねばならないこと。つまり敗戦したこと。それもまた、シーモアの課題となっていたのだった。


敗戦は、シーモアの責任ではない。課題とはなりえないはずだ。しかし、課題が社会的に編成され、当人の障害になってしまうと、当人の責任ではないからこそ、人生の課題となってしまう。責任ではないから彼には解決しようもない。


パトレイバー2』では、このふたつの課題、男としての資質を問われる人生の課題と、敗戦という社会的課題は、それぞれが別個のキャラクターに担われていた。南雲は後藤隊長ではなく柘植を選んでしまった。ここで、後藤隊長の男としての資質が問われてしまう。だが、柘植の方は敗戦の課題を抱えている。これらの課題が、本作では、同一の個体のうちに発現したのである。

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誰よりも狙われた男』は、ある奇跡の物語でもある。それは、仕事であれ恋愛であれ、すべての夢を断たれた人間が等しく経験する奇跡である。


事が灰燼に帰した後、傷心のシーモアは車で現場を後にする。路肩に車を寄せた彼は、下車し、新たな工作を始めるべく、いずこへか立ち去ってゆく。よろめきながら進むその姿は凄惨そのものだが、しかし、あれは奇跡の発現でもある。こんなにひどい目に遭ってもなお、彼は進むことができるのだ。